我が誇り海軍経理学校

                 D 小 方  哲 夫

 

齢、喜寿を迎え己の生涯を顧みると、唯一の誇りは海軍経理学校の「生徒」であったことである。僅か十カ月の「海軍生徒」であったが、終戦後の学生生活に比べ、その日々は今も鮮烈な印象として心に深く刻まれている。

あの終戦の八月、将来の不安を胸に各自帰郷先と、別れの言葉を書いた記憶を諸兄もお持ちだと思う。小生は「再起再会」と記して垂水の山を降りた。

帰郷先は父の任地の宮崎と遠距離であり、ダイヤが乱れて大混雑の山陽線の客車や貨車を乗り継いで、漸く門司に辿り着いた。途中広島の川原に、原爆で焼死した牛の死骸が無残に放置されており、悲惨な戦禍の一端を見ることができた。

門司駅構内は想像を絶する大混雑で、人ごみに押され短剣のベルトが外れ不覚にも紛失したのは誠に無念であった。乗り換えた日豊線は、爆撃で鉄橋が落ち直通運転ができず、再び列車を乗り継ぐことになった。途中では牛車にも便乗したが、駄賃に衣類を所望され、作業衣を渡す破目となった。

かくして、宮崎市内の宮崎海員養成所の官舎に辿り着き安堵する間もなく、米軍が自動小銃を手にトラックを連ねて進駐してきた。一夜にして校舎と官舎を接収され、即日住まいを失った。更に米軍の命令により、男子は施設の清掃に駆り出され屈辱を覚えたが、兵隊はフランクに接してくれた。

帰郷先がこのような状態で、転入学の機を失い、翌昭和二十一年の春に上京し、廃墟と化した我が国土の現状を目の当たりにし、逼迫した食糧事情と相俟って、今後は畜産の振興が必須と考え、その分野の学校を選んだ。

さて、ある日のこと、実習で畑の麦踏みをしていたところ、「おい小方じゃないか。何してるんだ」と声をかけてきた男がいた。野球部のユニフォームを着た西村是一君であった。同君は千葉医専を中退して海経に入校した熱血漢で、後に神宮球場で、その雄姿を見ることができた。これが戦後、同期生と「再起再会」した初めての経験であった。

続いて再会した先輩、同期生との出会いの一部と、海軍経理学校の余慶に浴した事例を、年代を追って記してみたい。

なお、その前に一言付言したいのは、小生一旦は畜産関係を志したが、急速な戦後復興の進展に伴い進路の変更を決意し、獣医師資格を取得後、新制大学の法学部三年に進学した。

一、第五分隊の伍長補で、当時は兄貴のような存在であった池田(旧姓 関)英夫氏とは三田のキャンパスで偶然お会いした。「私は思想的に変わった」と言われ意外であったが、懐かしい再会であった。

二、卒業も近づいた頃、就職のお世話を頂いた教授が「本学の学生だから」と言わずに、「小方君は海経の出身ですから優秀です」と紹介され、恐縮しつつ感激一入であった。

三、やがてサラリーマンとなり、昼休みに会社の屋上で仲間とバスケットの練習をしていたとき、同じ屋上の一隅にあるゴルフ練習場に、五分隊の分隊監事に似た方が二名の部長と談笑しておられた。新入社員の分際で人違いをしてはとお声をかけずにいたが、後年杉山教官にお会いした折確認したところ、ご本人であった。

四、会社では営業部に所属し、都心の大手企業の担当となり、ビジネス街を毎日回っていたが、不思議と米川義之君と出会うことが多かった。生徒時代と変わらぬ笑顔と明るい声に接し、大いに元気付けられた。

五、同業者として、三五期の下佐喬氏を始め、東 正恒君、佐久間眞城君にお会いする機会が多かった。

六、定年も近づいた頃、岐阜支店に赴任中のことである。支店の駐車場が手狭で近くの駐車場を借りていたが、地主さんから契約の打ち切りを通告され、小生が交渉に出向いた。お話しているうちに、地主である会計士さんが、何と海経三三期の内木一雄氏と分かり、「君から頼まれては断れないな」と継続を承諾して頂き、先輩のご配慮に大いに感激した。

七、医学部出身の吉松 博君、宮本炳郎君には同期の誼で、それぞれ専門的な助言や、後輩の専門医を紹介して頂き感謝の尽きぬところであったが、両君とも故人となられ痛恨の極みである。

八、最後に、本当に偶然の出会いをお伝えしたい。それは、平成十四年十月、小生が手術のため入院中のこと、隣のベッドに来られた患者さんが、三九期の木内真邦氏であった。しかも、ご夫妻とも杉山教官の奥様と現在も親交があると伺い、奇縁の深さに心から驚いた。なお、木内氏は清水建設の技術者であるが、絵画、歌舞伎等の評論家としても知られた方の由。大手術の朝、ストレッチャーに乗せられ、病室を出るとき「真珠湾攻撃だ!」との声を残してオペ室に向かわれた。手術は成功し、今年は年賀状も頂戴したので、何れお会いする機会を得たいと願っている。

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