思いつくままに

                 C 西 尾  邦 彦

             

もう三十年も前のことだが、近畿三七会の例会で入校の思い出話に花が咲いた。ところが、その日の天気になると記憶がまちまちで、雨、雨上がり、曇から晴まであったのには驚いた。そこで、「今のうちにお互いの修業記録や日記を突き合わせて正確な記録を作ろう。座談会形式でテープに吹き込めばテープ起こしは私が引き受ける」と提案したが、実現しないうちに私が転勤してしまった。今度、三七会で記録を作るについては、既に我々の上の二期も下の二期も夫々に立派なものを作っておられるから、今更我々が同じような記録を作るのも如何かと思う。寧ろ既に出来ている記録集を縦糸とするならば、我々はそれらを繋ぐ横糸として随想風の読み物にしておいた方が意味があるように思うので、思い出を二、三述べてみる。

私がいた中学では、毎年、休暇の時期に上級学校に進学した先輩達を招いて、学校のことや受験のアドバイス等を中心に座談会を開いていたが、冬休みの楽しみは海軍生徒達の母校訪問だった。スマートで礼儀正しい海軍生徒は皆の憧れの的だったが、海軍経理学校の帽子には白線が入っていた。そして、「学科は主に法律、経済」と聞いたときには、「あれっ、海軍の学校なのに」と思ったものだ。その海軍経理学校に入校したときには帽子の白線はなかったが、学科はまさに法律、経済が主だった。教官はどなたも、当時は勿論、戦後も長く夫々の学界で指導的な立場にあった方々だったことは誠に身に余る果報だった。しかし、やがて米軍の本土爆撃が始まって警戒警報や空襲警報の発令で中断されることが多く、中途半端になってしまったのは残念だった。

法学通論の牧野英一先生は、当時既に名誉教授であられたから大学での講義はなく、当時伝説の名講義といわれていたそうで、予備学生の海軍中尉から大いに羨ましがられた。その先生には大学でお目に掛かった。研究室の前に立っておられた先生に、「牧野先生ではございませんか」と申し上げると、つと振り返って「如何にも牧野です」とゆったりしたお返事。そこで、海軍経理学校で先生の講義を拝聴したこと、今年、法学部に入学したことを申し上げると、「それはそれは。折角ご勉強なさい」と励まして下さった。あの白皙で面長のご容貌は今も忘れない。運動会の開会式で校長の右に立っておられたので「校長より偉い人だ」と噂していた。

我妻先生の民法と舞出先生の経済原論は、後に大学で全く同じ講義を受けて吃驚した。先生方は大学並みの講義をされていたのだった。それだけに、先生方のご期待も大きかったと思うのは、垂水に移ってから先生方が東京から出張されるのも次第に無理になって、愈々最後の講義となったとき、我妻先生から、「私はこれまで経理学校で講義をしてきてみなよく勉強しよく質問していたが、お前達からは殆ど質問がない。これは勉強していないからだ。これほど勉強しないクラスは初めてだ」ときついお叱りを受けて、恥ずかしい思いをしたことが今も頭に焼き付いている。

しかし、中には立派な生徒もいたのだ。垂水では神戸商大の俵静夫先生から憲法の講義を受けたが、騒然とした八月十五日が明けた十六日、「何分の指示があるまで平日の日課とする」ことになって、偶々俵静夫先生の時間があった。先生は、「ポツダム宣言を受諾して無条件降伏となったが、まだ簡単な新聞情報以外に何も分からないので、今日は講義をやめ、質問があったら受ける」と言われる。尤もなことだと思っていたら、原が「大日本帝国憲法は変わるのでしょうか」と質問した。私は、何という質問をするのかと頭にきた。政府は国体の護持を条件にポツダム宣言を受諾するのだから憲法改正などはありえないのに、軽々しくも憲法の変更を口にするとは何事か。すると俵先生は、「詳しい条件や情勢が分からないから」と回答を保留された。しかし、その後の経緯は明らかで、我々は八月十六日で既に憲法改正を予感した数少ない日本人と机を並べていた訳だ。

これも変わり者ではないかと思ったのは島崎だ。外出の帰りに垂水駅で一緒になって、生徒館への道すがら、彼は「このところ娑婆では流行歌が全く聞かれないが、流行歌のない社会は逼塞している」と大真面目に語る。私は「何だ。たかが流行歌じゃないか」と言ったが、彼は真剣に社会の鏡としての流行歌を語った。結局のところ、私はトンチンカンな話だとしか受け取らなかったが、後になって、漸く彼の抜群のセンスに気付いて脱帽した。

紙面の都合で書けないが、寝室前の廊下で母校の寮歌を歌って踊って私の肝を潰した大人物の引地は、海が忘れられなくて定年まで海運会社に勤めた。海運会社といえば小野崎もそうだ。先に入社していた伍長の部下になり、職場でも「伍長、伍長」と言っていた。

一度覚えたら決して忘れない不思議な木村は、東大を退官したあと私立医大で教鞭をとっていたが、不幸にも失明したあとも講義を続け、退任する最終講義では沢山のOHPパネルを駆使して皆を吃驚させた。いろんな会合にも奥さんに手を引かれて出てくれるが、内助の功に頭が下がる。

豪快だが緻密な実業家だった父上の血を継いだ久米は、早々と銀行を辞めると、人材派遣業で一家を成した。それも、外国語に堪能な人材を国際的に幅広く紹介するという、当時としては日本人離れした新分野の草分けで、NHKにも数回登場している。また、久米が密かに「与五郎」の綽名を奉っていた神崎は、復員すると一農民として食糧の生産に努め、後に市議会議長として貢献した。実に清々しい議員だったが、惜しいことに数年前に亡くなった。

故人を偲べばまた思い新たなものがあるが、早く亡くなった桑原は愉快な変わり者だった。「一番難しい学校に入りたくて」海経に来たそうだが、塾の教師やアルバイトで妹や弟の面倒を見ながら、一高に五年、東大には九年もいて、当時から学内外で有名人だった。発想がユニークで、ガラス容器の底にプロペラを付けたミキサーを発案して全国の家庭に普及させた。私は会う度に目から鱗が落ちる思いがしていたものだった。

一方、家では「坊や、坊や」と言われていた甘えん坊の篠塚は後に東大医学部に進み、教室で大声でアジる共産党員を「ここは君達の来る所ではない」と廊下に押し出した唯一人の豪の者だった。

ハンサムなナイスボーイだった久米野も早く亡くなり、年老いたお母さんが可哀想だった。佐多と島田は、以来、毎年十二月の命日には必ずお墓参りをしている。なかなかできないことだ。久米野の二人の子息は夫々立派な社会人になって活躍している。

思えは素晴らしい生徒が沢山いて一々挙げきれないが、あの厳しい戦時下にこれらの人材を集めていた海軍の、教育に対する見識を憶う。

尤も、海軍といっても、これは、兵学校との校風の違いから来る時局認識の差ではないかと思うが、忘れられないのは復員のときの服装だ。経理学校では「無期限の休暇を賜る。身分の変更は追って達する」というので夏の正装、七つボタンに短剣の第二種軍装で帰ったが、途中広島から超満員の列車に窓から乗り込んで来た兵学校の生徒達は皆普段着の三種軍装(作業服?)だった。「目立つ服装をして娑婆で揉め事が起きてはいけない」という配慮だそうで、私に「そんな服装で大丈夫か」と心配そうに何度も聞く。後に兵学校の七五期に聞くと、他日決起するときに備えて連絡網と集合地点をきちんと決めているという。「軽挙妄動することなく、海軍生徒の矜持を持って祖国の復興に尽くせ」と諭された経理学校とは大違いだった。

復員のときは、垂水から熊本まで列車を乗り継いで三日二晩かかった。切符は、学校を出るときに配布されたガリ版刷りのものに着駅で料金を書き込むだけのものだったが、確か十一円程だったように思う。我が家は幸いに焼け残っていたが、熊本市内は殆ど焼け野原だった。母校の中学校に挨拶に行く途中、累々と続く廃墟をしょぼしょぼと走る路面電車で、中年の女性が「軍人さん。ご苦労様でした。どうぞ」と席を譲ろうとされる。叮嚀に辞退したが、流石に熊本だと思った。その熊本で三六期の藤本、松浦、鈴木の各氏を中心に生徒出身者の十数名が集まって記念写真を撮ったのは確か昭和二十一年の春だったように思う。もうその頃は軍人は悪者にされていたから、これは些か勇気の要ることだった。同期では久米野が熊本薬専、佐多が熊本医専、石坂、児玉、木村、島田、高尾、寺井と私が五高に進学した。久米野のお父さんは日本画家だったから、時々お伺いしては筆や色の使い方を教えて頂いたものだ。

久米は佐賀高等学校に進んだが、家が大牟田だったからよく往き来し、同じ佐高の松井とも親しくなった。そのうち、確か昭和二十一年の秋、久米からの連絡で私も加わり、三人で佐世保の蟹山さんを訪ね、「最後のご奉公ですから是非」と復員船に乗せて頂くようにお願いした。蟹山さんは、「復員船は貴様等が考えているような海軍とは全然違う。こんな苦労は俺達だけで沢山だ。貴様等は上級学校に進学して日本の復興に尽くせ」と諭され、粘りに粘ったが結局駄目だった。あの時の蟹山さんは二十一、二歳だったが、騒然とした混乱の時代に、あの年齢でよくそれだけの判断と指導をされたと、今でも感謝の念で一杯だ。やはり一号は違っていた。

思い出は尽きないが、戦後も追い追い六十年になる。私が幼少の頃、大人からよく日清、日露の話を聞いたが、日清になると殆ど「親から聞いた」話だった。まして、西南戦争の時に親に手を曳かれて西郷さんを見に行ったお婆さんの話になると、大人たちには七十近いおばあさんが生きていること自体が珍しいことだった。ところが、戦後の略六十年。クラスの約三分の一は世を去ったが、大部分は喜寿を迎えた。敗戦と占領によって戦前の日本との断絶が図られ、ついでにその尻馬に乗って日本のことは何もかも否定しようとする輩のお蔭で大きな空白が出来てしまった。それならば、我々の時代のことは我々がしっかり語り伝えなければならないのではないか。

 

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