山の鎮魂歌

                 A 大 岩  三 夫

 

朝早く「高尾山口」で電車を降り、山に向かう。いつものように、ケーブルの駅舎左手のせせらぎを一跨ぎ、階段状の道を一歩一歩踏み締めながら登って行く。高尾山には幾つもの登山道があるが、私はこの「稲荷山コース」と呼ばれる峰を歩く道が一番好きである。もう何回、この道を登ったことだろうか。そして高尾山から城山・景信山・明王峠を経て陣馬山に至るハイキング・コースを、何回縦走したことだろうか。この峰々を歩きながら頭に去来したことどもが、今は懐かしい。

 

私は神戸で生まれ、横浜で育った。浜っ子である。私の幼い頃の思い出に出てくるのは、常に母であり、二人の兄達で、父の面影は無い。父は船乗りであった。外国航路の乗船が多く、一年の大半が船での生活で、家に帰ることが少なかったからであろうか。そのせいか、家の中は頗る自由であった。小学生だった私は、父の船に乗って、日本近海を旅したことがあり、子供心に漠然と、海への憧れを強くしたものだ。

私が小学六年生の昭和十四年の秋、家に帰ったら、大勢の人がいるのに驚いた。父の乗船していた郵船の照国丸が、ドーバー海峡で機雷に触れ沈没したためであった。この光景は今でも鮮明に覚えており、父の存在が俄かにクローズ・アップされた時でもあった。中学二年生のとき、太平洋戦争が始まり、翌十七年の春、米軍空母から飛び立った飛行機が、中学校の校庭の桜の樹すれすれに飛び去り、戦争が身近なものとなってきた。

中学五年生の秋、海軍経理学校に入校したが、海軍への志向は、父が船乗りであったために、ごく自然であったが、エンジニアーとして誇り高かった父の跡目を継ぐには、余りにも私の眼は悪過ぎた。

品川から垂水へと海軍経理学校での生活は、僅か十カ月程であったが、今思っても非常に密度の濃いもので、数多くのことを学び、多くの終生の友を得たことは望外の幸せであった。

終戦時、横浜の家は空襲で焼けており、母や兄の居場所が不明であったので、ひと先ず母の実家のある山口県の秋芳に復員した。

このため、山口高校に進学することとなった。同期の者は河本泰人君と伊藤 孝君との三人であった。河本君は自治省に入り、のち高知県の企業局長となったが、その頃大阪で会い、旧懐を温めたが、その後はトラック協会にいた頃一、二度会っただけで会う機会が無く、年賀での付き合いとなったが、昨平成十六年十月に亡くなった。

山口高校時代の友で、今は亡き赤川 晃君と江島 淳君のことは忘れ難い。両君とも海軍兵学校七六期のコレスであった。

赤川君の家は萩にあり、私も度々伺い、明るい自由な家風が優しく身を包んでくれたことを思い出す。高校裏の家に二人で下宿し、共に野球部に入り、よく文学を語り、議論しあったものだ。理科で高校を卒業したが東大法学部に進み、東大野球部のマネージャーとして活躍した。卒業後新日鉄に進み、鈴木金属の社長として活躍していると耳にしていたが、東京を離れることの多かった私とは会う機会が少なく、程なく訃報を手にした。高校時代の旧友が、葬儀のあと、自由が丘駅近くのレストランに集まり、赤川君を偲び、お別れ会をしたのが忘れられない。

江島君とは、彼が国鉄時代、広島管理局長として広島に赴任したとき、私もたまたま青木建設の広島支店長として在任中であったので、たちまち交友が復活し、今度は妻を含めた付き合いとなり、錢高組の広島支店長もコレスということで、三家族で広島・東京で会合を重ね、楽しい一ときを過ごしたものだ。もうそれから二十年以上の年月が経つ。江島君は広島管理局長時代に山口線にSL「貴婦人号」を走らせ、話題をさらった。のち山口県から国政に打って出て、参議院議員となり、その活躍が大いに期待されたが、志半ばにして亡くなった。現在、長男が下関市長として活躍中である。

 

高尾山を後にして城山に向かう。桜の時期には満開の桜の下を気持ち良く歩くことができるところだ。城山から眺める富士山は美しい。以前よく城山から相模湖に向かう道を降りたものだ。この道は「東海自然歩道」の一部分でもある。城山を過ぎると、すぐ小佛峠だ。

小佛峠には茶店が二軒あった。その一軒(青木さん夫婦の店)に寄り、お茶を飲みながら朝食をとるのが楽しみだった。今は二軒とも高齢のために店を閉じ、廃屋となっている。山を歩く者たちには淋しいことだ。小佛峠からは急な坂道が続く、景信山も近い。

 

私は山口高校から京都大学に進んだ。大学の構内で二分隊のときの斎藤伍長補とばったり会ったのには驚いた。お互いに下宿を訪ね合い、旧懐を叙した。斎藤さんが産経新聞におられるときに二、三度訪ねた。圧巻は、私の広島時代に珊瑚会の総会が広島であり、三五期の津田さんから手伝いを仰せつかり、そのため総会に招かれ三五期の方々に混じって楽しい一ときを過ごしたことである。その時二分隊の奥田伍長を除く一号生徒にお会いできたことは忘れられない。斎藤さんはその後、病のため亡くなられたが、「イチオクターブ」高い独特の声が懐かしい。

私は大学を卒業し、住友石炭鉱業に入社した。赴任したのは住友石炭のドル箱赤平鉱業所であった。「人事係を命ずる」の辞令とともに私の新入社員生活が始まった。私の前任者は大学の先輩である三六期の坪井 経さんで、私との事務引き継ぎを終えると、東京本社の人事部に栄転して行かれた。当時赤平での人事の長は松山さん、大学の大先輩で、今でも石炭のOB会でお元気な姿を拝見するが、お兄さんが二四期で浴恩会総会でお会いしたことがある。

私は北海道五年、九州五年の十年近く石炭に身を投じていたが、昭和三十年代ともなると閉山が相次ぎ、活気の乏しい生活が続いていた。九州の飯塚市にある忠隅炭鉱で経理を担当し、閉山業務をしているとき三六期の坪井さんが訪ねて来られた。

坪井さんは石炭を退職し、ブルドーザー工事(青木建設の前身)の人事課長として活躍されており、私に青木益次社長に会ってくれと再三にわたって依頼があった。結局、私は青木益次社長と会い、転職を決意したが、閉山業務が終わり次第、本社経理部に転勤との内示を受けていたので、住友石炭の敷居が高かったことを思い出す。

昭和三十六年十一月にブルドーザー工事に入社したが、大阪の梅田工場の二階が事務室で、階下はブルドーザー他の車輌の修理のため喧騒を極めていた。入社してすぐ主計課に配属され、全国の建設現場の決算を受け持ち、部下は男子社員・女子社員一名ずつで、毎日帰りは終電車近くであった。しかし、忙しい中にも会社には前向きの活気があり、仕事での苦労を気にしたことはなかった。既に同期の市川君がいて神戸方面で専務の特命で活躍していた。当時、経理部長が三一期の水野さん、主計課長が三六期の島さんで、両先輩からはご指導を受けたが、島さんは亡くなられて久しい。

私の二号の時の分隊監事であった三〇期の瀧明教官は当時九州支店長であったが、私が青木建設から青木マリーンに転出後亡くなられた。

会社では人事部長を三五期の宮崎さんから、東京支店長を三六期の古賀さんから引き継ぎ、古賀さんとは今でも囲碁の仲間で月に一回はご指導を受けている。三七期は私以後入社した人も含め七名を数えたが、若生・日沖・今泉・田中の四名は既に亡い。

昭和三十九年不景気の時、私は主計課長から経理課長となり、銀行からの借入が主要業務で、資金需要が旺盛だったので大変苦労した。当時、日本興業銀行大阪支店には三六期の谷口さんがおられたが、なんと言っても一番世話になったのは、同期同分隊の岡井君である。当時、岡井君は東洋信託大阪支店の融資課長で、随分無理な融資についても、何事もないようにOKしてくれた。本店との間で問題があったようなことを彼の部下から後で聞いた。その後浅草支店長のとき、人事部長のとき、度々会って旧懐を温めていたが、私が広島支店に在職中に逝ってしまった。今でも咳込みながら、鬼瓦みたいな顔に笑顔を見せる彼が懐かしい。

青木建設に僅かな期間在職された、三六期の忍足さんのことは忘れ難い。忍足さんは経理学校で、唯一中学校の先輩でもあった。忍足さんが青木に来る前に高井戸のお宅をお借りしたこともあった。常に「良い仕事は、良い仲間から」が口癖で、青木建設を去り、国際油化の社長時代に「青木さんにもお世話になった」と、まとまったビルの建築を特命で発注された。当時私は東京支店長で三六期の古賀さん、三井信託系のデベロッパー三信の三六期中村社長等も関係したこのプロジェクトは、正に良い仲間の集まりであり、私の責任も重大だった。のち三井物産石油の社長になられ、度々お会いする機会もあったが、私が青木マリーンに転出し関西に居を構えてからは年賀での付き合いとなり、二年前に訃報に接した。

 

景信山を後にして明王峠を目指す。この一時間余の道行きが、このハイキング・コースの中で私が最も好む道だ。適当なアップ・ダウン、峰を巻く「まき道」を何回も歩き、明王峠に至る。明王峠から相模湖に向かって下りる一時間余の道のりは、楽しいものだが、快適な山道が最後は急な下りとなって神社の裏手に出るあたりは、危険であるので、今は余りこの道は歩いていない。

この明王峠から見る富士山は捨て難い。明王峠を過ぎると陣馬山は近い。

もうすぐにこの山歩きは最後の峰「陣馬山」に到着する。親しかった同期の友・コレス・先輩の方々で亡くなられた方を、頭に去来するままに描いてみた。年を重ね、出会うことの余りにも少なく、別れの余りの多さに人生の哀感を感ずるのは人の常であろう。

 

最後の登場者は二分隊同期の畠山君だ。二分隊時代は野球に、短艇に山下君とともに、お互いに大いに活躍したが、戦後は余り会う機会がなかった。二十五年前私が支店長時代に手がけた十八万坪の宅地造成工事の水処理を彼の会社にお願いしたこともあって、畠山君との交友が復活した。その後、私が東京支店長時代には彼の会社の建築工事を頂き、有名な川口源兵衛社長の知遇も得た。

私が青木マリーン時代には、二分隊の島君と三人で、よくゴルフをし、島君がメンバーだった花屋敷ゴルフ場三田コースでは、たびたび、二分隊の山下君も来てゴルフに興じた。そして、帰りにはゴルフ場内にある三田肉店ですき焼きを肴によく飲んだものだ。しかし、私が病を得てマリーンを退き、東京に帰ってからは余り会う機会もなくなり、入退院を繰り返す彼を心配していたが、いつしか帰らぬ人となってしまった。

 

とうとう陣馬山に着いた。三六〇度の景観に恵まれ、ここから眺める富士山は一番見事だ。この山にくると、大木さんが営む「富士見茶屋」に寄り、時にはビールを飲む。さて帰りはどのコースとするか、その選択も楽しみの一つだ。

老いを共に生きる先輩、同期の友との交友を大切に、またこの道を歩こう。

 

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