想い出と人々

                 Q  田  浩 二

 

昭和十一年八月、私達一家は旧満州の新京(現在の長春)の駅頭から父の新しい任地東京に向けて出発しようとしていた。

見送りに来ていたのは、父の上司関東軍憲兵司令官東條英機少将である。特徴的な三日月型の顔形、あまり威厳のある風貌とも思わなかったが、後年陸軍次官兼航空本部長に転出した頃から台頭し始め、首相になり、太平洋戦争まで始めて、当時の我等青少年の運命を大きく左右してしまったことは、真に感慨無量としかいいようがない。

父の任地は東京の憲兵司令部で、私達一家が落ち着いたのは麹町区竹平町、つまり外濠と神田川に挟まれた地域にあった憲兵隊官舎である。現在、関東財務局の東隣り銀行の本社ビルが建っているあたりである。

ここで一番偉いのは司令官の中島今朝吾中将、次に偉いのが総務部長の田中静壱少将(後に大将、敗戦時拳銃自決)である。中島中将は陸軍の異端児といわれた秀才であるが、後年南京攻略時の師団長であるから、猛将といっても過言ではなかろう。普段は温厚な顔つきが印象的だったが、何やら子沢山だったことが記憶に残っている。

田中少将は物凄い髭の閣下で、偉そうにしているのが印象的だった。

後年、中島中将の長女不二子さんと、そして田中少将の長男三吉氏とひょんな所で解逅することになるとは、不思議な運命の巡り合わせとしかいいようがない。

昭和十六年に始まった太平洋戦争は、好むと好まざるとに拘らず当時の青年達を戦争へと駆り立てていった。

私の父が軍人であったせいもあって、陸軍経理学校を受験、学科では合格したのだが、何と入校前の身体検査で、「お前は肺結核に付き入校不適格」という烙印を押されてしまった。一緒に集まった連中が真新しい軍服に着替えて嬉々としている中を、口惜し涙に泣きぬれて悄然と校門を後にしたことは終生忘れ得ない屈辱であった。

私の一生はある意味で挫折の連続であるが、その挫折の一歩が正にこのことであった。

翌年再度挑戦した結果、海軍経理学校と陸軍経理学校の両方に合格した。陸軍を袖にして海軍経理学校に入校したことはいうまでもない。

昭和十九年十月海軍経理学校入校に先立つ三日前、品川本校に兵学教官池田少佐を訪問した。父が知りあいだったらしく朝十時に来るようにとの伝言を頂いた。十時の約一分前正門を通り玄関に向かうと何と正面玄関に人が立っている。

正十時、「池田教官ですか。田です」と声をかけると、「約束の十時です。時間厳守で宜しい。よく来た」と誉められた。別に誉められる程のことではないが、わざわざ約束の時間に玄関まで出て立っておられたのには恐縮した。このことが身に沁みて、爾来時間厳守は私の人生哲学の基本となっている。

入校後二、三週間たった頃だったろうか、大浴場に入っている時、見知らぬ上級生らしい生徒から突然声をかけられた。「田生徒元気にやっているか」咄嗟のことだったので、「はい、元気にやっています」としか返事できなかったが、さて誰だか分らない。後で聞いたところでは一五分隊の塚田生徒だった。比較的低い身長、ニヒルな風貌、有名なやかまし一号生徒である。しかしながら感心したのは、一五分隊と小生所属の一八分隊、こんなに離れていても、新入生の顔を一々覚えていて声をかけるという愛情教育の有り難さに感激した。在校中は徹底した鉄拳教育に鍛えられるが、これは愛情に基づく情操教育の発露だと理解している。

旧一五分隊白水君から聞いた一つのエピソードを紹介しておこう。 

一五分隊伍長の篠原生徒が、約六カ月間に三号生徒に振るった鉄拳の数は二千八百八十個であるという話である。毎日毎日今日は何個明日は何個と日誌につけた鉄拳の累計が二千八百八十個ということである。愛情ある教育を心掛けなくて、こんな数字が日誌につけられるものでもない。海軍経理学校の教育を象徴するような心温まる逸話であると理解している。

 昭和二十年八月、敗戦を迎え私達は復員させられた。私の父は当時西部憲兵隊司令官という役職で福岡にいたため、私は福岡に復員してきたのだが、私にとっては又も挫折をくり返したことになる。

 その後、縁があって鹿島建設に入社し定年まで勤め上げるのだが、前記した中島今朝吾中将の長女不二子さんに偶然のことからお目にかかることになった。

 中島中将の娘婿が箱崎宮宮司田村克喜氏(現宮司の厳父)であり、偶然の会話の中から、当時田村宮司が義父中島中将の事蹟を蒐めており、その一環として私の父に中島中将の想い出の起草を頼んでいたことが分かったからである。これらの事実関係は、木村久邇典著「個性派将軍中島今朝吾」に集録されている。

 私が鹿島建設九州支店総務部長に就任したのは昭和四十八年であるが、この時の本社の人事部長が土井三吉氏、父の上司田中静壱大将(敗戦時)の長男である。何の話の糸口から昔の関係が分かったのかはよく憶えていないが、ヤアヤアということで昔話に興じた次第である。

 私は鹿島建設に定年まで勤め上げたので色々と思い出も多いが、大変お世話になったのは、渥美健夫社長(海経短期現役出身)と常務九州支店長の田中泰造氏(陸軍の主計少佐でシンガポール攻略軍の経理部接収班長を務めた猛者)。一番お世話になったのは支店長久富木勝幸氏、戦前陸大を出て陸軍省人事局にいた逸材である。

 渥美社長は同じ経理学校出身という気易さからよく言葉をかけて頂いた。当時支店幹部の一員として本社に案件を説明に行く機会が多かったが、社長には私の説明に耳を傾けて聞いて頂けたし、適切なアドバイスもして頂いたことを感謝している。

 田中常務には五年間秘書課長としてお仕えしたが、秘書課長離任に際して、異例の若さでの社長賞表彰という形でその労に報いて頂いたのは大変嬉しかった。

久富木さんには大変お世話になった。私の秘書課長就任は久富木さんから三顧の礼で迎えられたからであり、その後異例の若さで部長昇進を果たしたことはすべてこの方のお蔭であり、鹿島で一生を終わった私には真に有り難い存在であった。

海軍経理学校の時代は短い期間ではあるが、厳しく鍛えられた不屈の魂、優しく導かれた分隊生活の回想等、私は一生の宝にして強烈な思い出として持ちこたえたような気がする。残り少ない人生かも知れないが、この貴重な絆を大切にしていきたいと念願している。

 

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