肺結核手術こと始め

―それは局部麻酔で始まった―

                 P 伊富貴  徹 二

 

突然、背中を汗のようなものが流れる。

「先生、暑いのか汗が流れますね」、「何言ってんの、血だよ」、

ウヘ! :::: 私は言葉を失う。

コッフェル(止血鉗子)を使って血管を縛り、背中に垂らす。その金属質の冷たさが、私の緊張感を高める。背中に次々と我が血流。

ややあって、私の背中は大きく口を開け、それを熊手の親戚みたいなレトラクター(開創器)で、我が兄がガッチリ保持する。

「苦しいときは言いなさいよ」、「大丈夫です」。

何が大丈夫なものか、これからいよいよ、この病院最初の、局部麻酔による胸郭成形手術の本番と相成るのだ。

    一

私がその手術の術法を執刀医から聞いたのは、手術の前日であった。執刀医のM医師は、当時有名な、胸部外科手術の先駆、京大の宮本忍教授の許で、術法を修め、帰郷したばかり。私が彼の手術患者第一号なのである。所は富山県西郊、全国三カ所しかないという点在農家の村(いまは礪波市)である。

その術法、局部麻酔でやるという、右肺胸郭成形術(肋骨を数本取って胸部をつぶし、病巣を圧死させる療法)を行う。右背、肩甲骨の内側を約三十センチ切開し、肋骨を第一肋骨より六本とる。手術は二回、まず四本、一カ月後に二本。私はもう俎上の鯉だ。他人事みたいに聞くのみである。なおレントゲン写真は撮ったが、事前検査や点滴はなし。

昭和二十五年五月二十五日、リンゲル液を大腿部に皮下注入。一三〇〇、タブタブになった足を曳きずって徒歩で手術室に入る。

手術室にいるのは、M医師、老父医、一寸チンケな看護婦二人、そして助手然と我が兄。計器類殆どなし。すべてはメケンの大仕事、頼るは患者の反応と顔色ばかりである。

衣類をとる。手術衣なく半裸で手術台へ。ひんやりとした感触。

「では始めます」と老父医へ。「はい」と頷く老医。

いきなりブスリと大きな注射器が背中へ。ウッ::という訳で麻酔。始めは痛く苦しいが、そのうち感覚が切れる。

いよいよである。メスが背中を走る。痛さはないが気味が悪い。思わず唸ると、「痛いか」。みっともないから声を出さぬことにする。五月の緑を渡る風が窓外で音を立て、私はいつか汗ばむ。

    二

「第一肋骨は外皮を捲って全部とるから、一寸苦しいよ」。どんな器具か、私の第一肋骨の外皮をはがし、そして抜く。やがて植木屋のような大きな鋏で、肋骨の半分位を切断する。ポキッと大きな音。今度は背骨の根元、胸前までの骨を抜くのだ。少しずつ骨を切りつつ胸奥へ。私の体が浮き上がる。胸まで抜く医師の力で浮くのだ。肺を巡って殆ど喉元の辺りまでゴリゴリ。外皮を剥がし骨をカットして引き抜く、その苦しさ。とうとう私は何やら断末魔めいた悲鳴をあげ、医師に悪態をついた。外皮を残すのは後日軟骨ができるからとか。

「フム、そんな言葉が出るうちは大丈夫だ」。医師は平然と言い、手をゆるめない。

同じ手法で二本目、三本目と少しずつ胸前の骨を残して抜いてゆく。四本目の頃は、もう悲鳴疲れで声も嗄れ、ウナるだけになった。

英語が読めないらしい看護婦が、ヴィタカンファー(強心剤)と間違えて、エフェドリン(止血剤)を打つハプニングがあり、一時私は血の気を失った。医師が怒鳴り、急遽強心剤を打って事なきを得る。

この手術は執刀医と患者の掛け合いだ。「苦しいよ。もう止めてくれ」と呻けば、「止めると死ぬぞ。いいのか。頑張れ」と応じ、これぞ究極の和気藹々なのである。そして患者の声を元気のバロメーターにして、医師は手術を続行するのだ。

さて縫合である。もう麻酔が醒め、しかも薬が効かない。私の怒号を無視して縫合。その痛さに汗びっしょりになった。

    三

こうして四時間半後、手術は終わった。病室へ。外で心配そうな家人に笑いかけることは終にできなかった。是非そうしたかったのに。庭は明るく、木洩れ日が目に染みた。家人は入籍して、付き添いにきた。地元の陋習がそうさせた。正に家人は、出征兵士の妻の心境だったのだ。

その夜は四十度の発熱。家人、医師、老医、兄が付き添う。私は朦朧としてウツツの中にいる。時々何やら注射。静かに夜が更けてゆく。翌日も九度近い熱。麻酔の副作用で舌一面に舌苔、食物ダメ。

やっと四日目ごろから熱が下がる。舌苔のため食物の味なく、僅かにソバが通る。七日目抜糸。老医がピンセットで背中を掻いてくれる。その心地よさ天空を行くが如し。寝たままなので便が出ない。

十日目、とうとう意を決して、苦しみながらベッド下へ。排便。余りの多さに肛門括約筋が限界を超える。脱肛気味。私の記念碑だ。今も治らぬ。翌日から室内歩行。今の手術では翌日にはもう歩かせる。私の場合と大違いだ。

半月後、背中を右に傾けての院内散歩。一カ月後は殆ど正常に。

そして六月二十五日、再び私は同じような経緯を辿って、二回目の手術、肋骨二本を取った。三時間強と時間はかかったが、前回と異なり、術後家人に手を振ることができた。病室での回復も早かった。あの舌苔も少なくて済んだ。

    四

退屈な、クソ暑い北陸の夏をこの地で過ごし、秋になって帰京。翌年五月、ツテを辿りやっと日本無尽(今三井住友銀行)へ就職。(日本無尽―日本相互銀行―太陽銀行―太陽神戸銀行『退職』―さくら銀行―三井住友銀行。私は退職後、太陽生命へ)

予後の節制不足のためか、昭和三十三年再発。今度は一年かかったが薬で治った。ヨカッタヨカッタ。今は再発しても半年足らずの入院で済むとか。果たしてそうか。菌も日進月歩、再々発あるかも。

最近の手術の仰々しさ。事前に徹底的な検査、至れり尽くせりの設備で、完全消毒の医師が、補助医、麻酔医、ナースに囲まれ、諸計器で患者の病態を見ながら施術する。だが、患者に意識なく、心も通わず、執刀医は死体の如き人体にメスを当てる。患者との対話のなさが医療ミスの根源になっていないか。

患者と対話しながら、貧弱な設備の中で、自ら用具を選んで、力一杯施術した我が執刀医に、私は心から拍手を送りたいと思う。

余談だが、M医師は私の成功に勢いづいたか、折から入院中のTB患者を全員手術、一人の例外を除いて成功した。地元の名声を博することとなる。ただ、酒、タバコが過ぎたのか、体質か、病を得て五十歳になるかならずで早世してしまった。惜しい医師を失ったものだ。

なお、兄は当時M氏宅に寄留、金沢の薬大に通学中。後日M氏の親戚の娘と結婚する。私がここで手術し、看護士でもない兄がメスで開かれた私の背中を、開創器で保持していたのは、こんな事情による。

 

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