生家の周辺

                 M 橋 場  昭 二

 

先日、中学校の親しい友人が江戸時代の下町古地図と一緒に、堀晃明氏著「ここが広重・画『東京百景』」(小学館文庫)なる本を贈ってくれた。私の生家は、芝の旧田村町五丁目(現西新橋三丁目五番地)で、小さい時から義士の討ち入りにからんで有名な田村右京大夫邸の跡地の一角だ、とばかり思い込んできた。だから、田村町と言う名前が冠せられたのだと信じていたし、家から五、六十米しか離れていない日比谷通りに面した旧田村町四丁目の市電停留場前に、浅野内匠頭が切腹した田村屋敷の碑が残っている。しかし、古地図と前掲の本によれば、これは私の思い違いで、私の生家は田村屋敷のはす向かいにあった松平隠岐守邸の一角だったことが判った。間違った認識を冥土まで引きずって行かずにすんで友人に感謝している。

何日か前、日比谷公園創園百年という番組が放映されて、開放的で明るい花壇や鶴の噴水、松本楼など、懐かしいあれこれが映し出された。

真ん中をくり抜いたヤップ島の石貨は、私がこの公園でよく遊んだ子供の頃からあったと記憶している。公会堂は、戦後学生だった頃、午後からの授業をよくサボって、マチネーの音楽会に度々通ったものである。公会堂のビルは、東京市政会館で、戦後この三階だったかに大蔵省国有財産部があり、石井指導官が海軍関係資産の整理方本締めでおられ、遊んでいるなら手伝えと、大蔵省嘱託として暫く下働きをしたことがある。同期の金森も、何故か同じ部署にいたのを思い出す。

生家の北が日比谷公園なら、南には芝公園が控えていた。今は、昔の面影は全くと言ってよいほど残っていないのが大変残念だが、当時は、うっそうとした森が紅葉坂の下から増上寺の方角にかけて広く拡がっており、今ゴルフ練習場になっている辺りには、かなり大きな池があった。通っていた小学校が、慈恵医大の裏側にあった愛宕小学校だったので、芝公園は恰好な遊び場で、この池にもよく亀を捕えに行き、家に持ち帰ってはその都度、母親からお目玉を食らってまた池に戻してやった。

紅葉坂の下の辺りには人工の滝があって、滝壷の付近の水溜まりには蛭が沢山いた。当時、蛭は肩凝りなどの悪い血を吸い出すと言われ、よく捉えては母親に持ち帰って親孝行をしたものだ。

増上寺に隣接して徳川家の霊廟、所謂「おたまや」があり、歴代将軍のお墓が並んでいて、子供には何となくミステリアスな領域であり、半分こわごわ、それでもわくわくして遊んだものだ。

今は西武のプリンスホテルなどの開発で、ほんの一部しか残されていないのは、史跡保存の上からも無性に惜しまれてならない。

忘れてならないのは愛宕山である。私の生家からは日比谷公園よりも、また芝公園よりも近く、本当によく遊んだものである。愛宕神社は私共の氏神でもあった。当時はまだ木々がうっそうと生い茂り、セミやトンボの楽園であった。モチを塗った竿を振り回して夢中になって捕えた。昔の放送局は、今はNHK博物館になっているが、山頂には桜の木が多く、愛宕神社から博物館方向にフラットな広場が拡がって、春ともなれば満開の桜の下でラジオ体操が始まったものだ。

愛宕神社は、愛宕下通りから急な男坂と、緩やかな女坂が昇殿のアクセスであり、今は愛宕山トンネルの付け根からNHK博物館に至るエレベーターが設置されて、我々年配者には有り難いが、参拝の表道は男坂につきる。坂と言っても、女坂を含めて上り切るまで石段で、男坂はかなり急である。ここを間垣平九郎が馬で駆け上がったと言い伝えられているが、下りの方はどうだったのか話を聞いたことがない。

また安政七年(一八六〇)(注)に桜田門外で彦根藩主井伊掃部頭が暗殺されたが、この襲撃に参画した水戸藩士たちの最後の作戦が練られたのが、愛宕山だったことはあまり知られていない。

戦前は神社の外れの台地の一角にサイレンが備え付けられて、昼時正午に昼食の合図に鳴らされた。生家の方までよく聞こえたものだが、戦時中、空襲警報に使われたかどうかは定かではない。

戦前は、山から東京湾を望む空間には高い建築物が何もなく、お台場付近辺りを行き来する商船が実に良く見えた。二十六メートルの高さは、当時は子供達にはゆったりとした時の流れと心の豊かさを感じさせる夢の展望台であった。

都会の真ん中にあって、ともすればすさび勝ちの味気ない毎日であっても致し方ない少年時代に、日比谷公園、芝公園そして愛宕山は限りない自然の恵みと愛を与えてくれたやさしいオアシスだったと思えてならない。このような環境に育ったことを心から感謝している。            【平成十六年十二月二十九日永眠】

(注)桜田門外の変は三月三日。三月十八日から万延元年になる。

 

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