再び「友へ」

                 M 榊 原  秀 雄

             

三七会が結成されたときの会報第一号(昭和三十七年十月発行)の巻頭で「友へ」と題して、同期の皆さんに呼びかけのご挨拶をしたことを、今懐かしく思い起こしている。この程「文集」が発行されるのを機会に、そのときの挨拶文を、もう一度掲載させてもらうことにした。

「十七年の歳月が流れると、過去の思い出は平素容易に念頭に浮かんでこないものである。私が紙上を借りて皆さんに『友』と呼びかけるのは、あるいは空々しいものと受け取られるかも知れない。しかし、幸い私があの当時、クラスメートの結合の接点としての立場にいたので、数多くの方々が私のことをよく覚えていて下さるだろうと思うし、また私自身、多くの方々に長年の空白を飛び越えて強い親近感を覚えているので、勝手ながらお許し願いたい。

私は終戦の年、京都の第三高等学校に編入学し、東京の大学を出て昭和二十五年農林中央金庫に就職し、東京に二年いたあと前橋、福岡を回って三十四年の暮れ東京に帰ってきたが、学生時代は、たまたま同窓の極く少数の方々と交際していただけだし、社会に出てからは、地方回りということもあって、加藤君、由良君、桜井君等在京の有志の方々にすべてをお任せした恰好となって、何かと失礼ばかりしてしまった。

今年の六月、東京で盛大な『みんなの会』が催され、私もはじめて列席させて頂いて、席上幹事の一員を仰せつかることになったが、そのあと七月に、大阪で近畿在住の方々の盛んな集まりがあり、続いて名簿の作成準備となり、会報の発行まで漕ぎつけて今日に至っている。

 (中 略)

私はこの会が、これからいつまでも気持ちの良い雰囲気で続いてくれることを念じている。このため、一つの方法として非公式の小グループを作っていくことをお勧めしたい。例えば三号生徒当時の同分隊の者のつながりをつけるとか、現在の夫々の職業によって同業種の方々が横に連絡をとるとか、地域別に集まるとかである。そのための資料は幹事が提供できると考えるので、何かとご照会下さればと思う。そして、年ごとのクラス全体の集会では、夫々相集い盛大なものにしたいと願っている。」

あれから四十年、当時はとにかく結集の輪を拡げていこうということで走り出したが、もつれた糸を手繰る思いであって、正直なところ、三七会がこれほど盛大なものになろうとは夢想だにしていなかった。会報も一〇八号を数えるに至っており、まさに今昔の感を深くしている。いまは亡き日下信之君の比類なき情熱、卓越した才能、献身的な行動に負うところが大きいことは言うまでもない。あらためてご冥福をお祈りするとともに、心から感謝の念を捧げたい。

私は、発足翌年の昭和三十八年、文字通りこれからというときに高知へ転勤となり、それから神戸、松山と長い地方勤務が続き、その後も東京と福岡、札幌の間を往復した。このため、三七会への出席が思うに任せず、私の横着さもあって、皆さんとの関係も次第に遠のいてしまった。この間、神戸では、故佐藤指導官が何度か事務所においでになり、いろいろ激励して頂いたことを忘れることができない。

昭和五十六年に農林中金を退職し、遠洋鰹鮪漁業者の債務保証を行う団体の代表に就任した。折しも二百海里規制、大幅減船など漁業環境はまことに厳しいものがあり、全国各地の漁業者の経営安定指導等に奔走した。そして、十一年の歳月がいつのまにか流れてしまった。

以上、三七会発足後の私の経歴を申し述べたが、最初に呼びかけの役目を果たしただけで、あと何の力にもなれなかったことを思うと、長い地方回りがあったとはいえ、内心忸怩たるものがある。四十年前のご挨拶とは違い、今回は、長年のご無沙汰のお詫びを申しあげるものであるが、同時に、親しみを込めて再び「友へ」と語りかけたい心境でもある。

ここ数年間はすっかり体調を崩し、日々調整に努めている私である。前立腺がんは、手術を避け注射と投薬の治療を六年間続けてきたが、ようやく医師の許可を得、治療を中断してみることになった。しかし、心肺機能の低下もあり、年とともに息苦しさや疲労感が気になるようになってきた。いろいろ考え事をしたり書き物をすることも要注意で、できるだけ控えるようにしている。この雑文も取り留めないものになってしまったが、やっとの思いで書いたものであり、事情ご賢察願いたい。

終わりに、三七会の益々の発展と同期の皆さんのご健勝を切にお祈りする。

 

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