わが生涯のハイライト

                 K 中 村  方 寿

 

海軍経理学校へ

私は、昭和二年四月六日、札幌の北大医学部産婦人科病室の一隅で、この世に生を享けた。今となっては、気安く出入りできる場所ではないが。

父方からは、駐英公使と国立大学工学部教授が出て、一門の誇りとなっており、母方は、伊予大洲藩(加藤氏六万石、外様)の藩士の家系で、元禄の頃、人を斬ったという言い伝えにしては余りに美麗なつくりの刀が、不気味に残っている。

明治の世、曽祖父一家は、大阪夏の陣以来住み続けた大洲を離れて東京に出、祖父は、外人の学校で採探鉱等の鉱山技術を学び、三井系会社の技師として北海道に渡り、水銀の鉱床を当てて産を築いた。札幌の名士となった祖父は、他の分野の成功者らと北海道最初のデパートを創ったりした。

跡取りの叔父は、私を可愛がり、よく雑誌「子供の科学」のお古を与えた。その少年向けのテクノロジーや軍事関係の記事によって、私は飛行機や軍艦、そして海軍への関心を育てたが、特にハインケル、メッサーシュミットなど、ドイツ空軍機の精悍な姿態に強く惹かれた。

小学四年の春休み、二十を出たばかりの叔父は、病気で急逝した。その日ひとり家にいた私は、居間から玄関に通じる回り戸が、音もなく二十センチ程開き、すぐ元に閉じるのを見た。猫はいないし、猫は戸を閉めない。間もなく知らせが来て、丁度その時叔父が亡くなっていた。かくして、大洲藩の藩士の直系は絶えた。

そのあと、官吏の父は、頻繁に転勤するようになり、私は、札幌から、中一(小樽中)、中二(函館中)、中三(岩見沢中)と転校を続けたが、官舎も大きくなっていき、父は高等官に昇進した。小樽手宮で住んだ二階建て官舎は、現在、札幌郊外の開拓記念公園に保存展示されている。

樽中で三七期となる山村良橘君、函中では尾藤秀郎君(ともに故人)と同教室。尾藤君は級長だった。函中はその頃、軍学校合格者が少なく、ある日、万葉集の権威で穏やかな文化人の校長は、にわかに高松高女校長に転出して行ったが、そのための左遷と噂された。後、尾藤級長のあの教室は、海経二(彼と私)、海兵五の合格者を輩出することになったが、海兵組の一人(七五期)は宮様(賀陽宮治憲王殿下)と同分隊員となる光栄に浴した。しかし、他の一人(七六期)は終戦の僅か二週間前の夜、生徒館屋上から身を投じて自殺した。尾藤君のあの教室は、この上ない栄光と哀惜を共にしたのである。

受験の時期が近づき、成績上位者の多くは札幌の帝国大学予科を目指し、私もその一人だった。我々田舎中学生の仲間は、最難関の海経はサバイバル試験でもあり、受けるだけ無駄と思っていた。しかし、受けた予科は、数学一問を落とし、失敗した。空しい掲示板を後にした私は、今後の対処法を考えながら街々を歩き続け、気がつくと大きな川の前にきていた。川面を見ていると、急にアイデアが閃いた。「反復行なう武道の稽古のように、練習問題を沢山こなし、答えを引っ張り出す勘を叩き込もう」。私は早速問題集に取り組んだ。

五年になったある日の下校時、海軍雑誌「海と空」の愛読者で熱烈な海軍ファンの副級長Kが、後から追いついてきて海経受験を語った。曰く、「今まで我が校に、海経合格者がいない。一高より難しいと思うが、視力不足の我々に、短剣への道はここしかない。受けてみないか」。

初日の数学は、最後の一問が解けないまま、時間は遠慮なく過ぎていった。解答の発見に集中していた私は、「終了十分前」との試験官の声も上の空で聞いた。とその時、一本の補助線を発見した。辿っていくと解答が出た。急いで数式を書き上げた私は、最後に室を出た。夕方の発表で、私は残り、誘った彼は駄目だった。

そのあと、彼は北大医学部に進み、東北大学医学部助教授となったが、学校をやめて千葉で病院を開いた。もうすっかり年をとり杖をついて歩いているが、あの時、場末のドブ川の橋を渡りながら、打ち明け話に似た、ためらいながらの彼の誘いは、後述のように、普通起こりえない華麗な展開へ私を導く糸口となったのである。若し彼が私に海経受験を持ちかけなかったら、あのような体験を絶対持たなかった。Kは私の恩人である。

「天は自ら助くる者を助く」。英作問題でもお馴染みの格言だが、思い詰めて掴んだ閃きの勉強法が、とうとう私を海軍経理学校に連れてきたのである。

最後の短剣

海軍経理学校の規律と教育訓練、厳しい集団生活から得られたと思うことは、強い愛国心のほか、

一、周囲環境の速やかな状況把握と対応力

二、強い気力と敢闘精神

三、身体の敏捷な動作と瞬発力

四、体調、体力の保持に対する関心と方策      

等であろうか。そして、この中、一、二を証明する機会がすぐに来た。

 終戦の後、忘れもしない経校離校の日の夜、北海道へ帰る三号二、三人と私は、まだ大阪駅のコンコースにいて、遅い発車の青森行き列車を作業服姿で待っていた。爆撃で崩れた壁を、仮配線の裸電球が陰気に照らしていた。その時私は、少し離れてこちらを窺う数人に気付いた。瞬間、衣嚢を狙う第三国人と直感した私は、激しく燃え上がる闘志を感じながら、全員に命じて、短剣を装着させた。たちまち迫り来る彼等に動揺が走り、やがて退散して行った。

 入校前、無心に憧れた短剣は、勿論、象徴だけの服飾品だが、最後に武器として威力を発揮した。そして、同様に、国家においても武装なくして安全はありえないことを私に教えてくれたのである。

NHK

 復員後、北大予科、同経済学部を卒え、昭和二十六年、日本放送協会(NHK)に入った。海経では手荒で大変忙しい思いをしたので、残余は超安定事業の事務でもやって暮らそうと思ったのだが、下心に、然るべき女性との出会いを狙わなかったといえば嘘になる。時は、ラジオ放送の黄昏、民放開始と、テレビ登場前夜の頃であった。

 初任地は、北海道東部の北見市。急行列車もやって来ず、知床や監獄が有名な網走市に近く、北の僻地特有の寂寥が漂い、冬の寒さは物凄い。北見放送局は、アナウンサー二、放送記者一、プロデューサー四、アシスタント三の放送部門のほか、技術(機器操作、保守整備、電界強度〈受信電波の強度〉地域調査)、事業(局外催事、受信契約、受信料集金、受信機修理巡回指導)、管理(庶務、経理)の各部門を合わせ、合計四十名程の小局であった。私は、経理係二名の一人で、会計帳簿の記帳集計、報告書類の作成を受け持った。

 二年半後、札幌中央放送局(現北海道本部)経理課に転勤、道内全局の会計報告書を取り纏めて東京の経理局に送った。「キャリア組として、そのうち東京に移り、あとは東京本部と地方の中央局を交互に動きながら昇進していき、定年まで平穏な生活が続くのだ。やがて伴侶も獲得できるだろう」と思ったものだ。

 独身寮には、NHKが選抜した人材、逸材が揃い、屡々学生寮の延長よろしく、森羅万象、談論風発、理想夢想を交々熱っぽく語り合った。私もその一人となって、怪気炎を上げていると、組合の先輩から専従に誘われた。ポストは、日本放送労働組合中央執行委員兼北海道支部書記長という肩書き、総評傘下の、いわゆる日放労の幹部である。若輩ながら日本紳士録に名前を載せて、悪い気はしなかった。 

 まだ総評指導の下、横並び一斉に行う春闘以前の時代で、日放労(当時組合員七千五百人)は、ストライキを背景に、ベア要求を行うことになり、細部を詰める中央執行委員会、闘争委員会が頻繁に開かれ、その都度、私は夜行列車と海峡連絡船を乗り継いで札幌東京間を忙しく往復した。ストライキという、穏やかならざる手段に対し、支部七百の組合員の関心も大きく、私は質疑と応答、諸会議の司会、協議調整などを重ねて、次第に体制を固めていった。しかし、最後の団体交渉において協会側は、頑として、拒否の姿勢を崩さず、闘争は挫折し、ストライキを先導してきた組合執行部は、総辞職に追い込まれた。

 NHKのベアは、通例、受信料の値上げを招来することになり、国会マターとなる。時の政権は国民負担の増加を嫌い、与野党とも大きく動かなかった。背景の政治は、ストライキの力を超えていた。

 海上自衛隊へ

 安定を求めたはずのNHKで衝撃を受けたのは、老後の問題であった。ある年の忘年会の酒を前に、初老の管理職が語った。「定年で辞めていった先輩達の幾人が、笑顔で元の職場を訪ねてこられるだろうか」。当時、厚生年金支給開始六十五歳と定年五十五歳とのギャップ十年の、無収入期間に対して、NHKは滑り込める子会社等を持たず、年配職員達の悩みは深刻であった。外見華やかなNHKは、内に大きな暗部を抱えていたのである。

 定年後自適の、父の恩給生活を見て、私は海経の経歴がどの程度活かせるか、海自幹部の募集要綱を取り寄せてみて、目を見張った。恩給は十五年早い五十歳から受給可能。相応する階級号俸の月額は、三割も多いのである。しかし、近くの陸自北部方面総監部の係官は、海上自衛隊幹部の公募は今回で終了するはずだと言った。(実際は翌三十二年が最後となった。)

 私は三十歳に近づいており、その最後という機会を求めることに決め、忙しい組合の仕事の合間を盗んで、何とか試験を受けた。ストライキ挫折後、組合執行部は交代し、私が職場に復帰した頃採用通知が来て、私はNHKを去った。

 海自の勤務は、第二術科学校(横須賀田浦)教務課の係長で始まった。二術校は機関科の学校で、蒸機、内燃、汽缶、電機、工作、応急(艦内防火・防水)の課程のほか、臨時に航空機補修、潜水艦の課程を併有していた。

それに先立ち、昭和三十一年十月、十七期幹部入隊講習員の三等海尉内定者となった私は、江田島の幹部候補生学校に到着した。建物は、広瀬中佐当時の生徒館で、赤煉瓦造りは有名である。総員約百名の構成は、二佐一、三佐十、一尉二十、二尉三十、三尉四十で、出身は、生徒三十五(海兵、海機、海経)、旧技術士官十五、旧下士官兵十五、旧陸軍(陸士、航士、陸幼)十、海事系学校(商船、海保、水産)十五、その他(法・警務、医・薬剤、経補)十であった。(いずれも海兵、陸士系終了上、高専卒上)なお、二佐一名は医官。

 海経後十一年。だが神経や筋肉は十分生きていて、直ちに反応を始めた。それに、幹部待遇の、適度な自発的規律生活は、昔のあの厳しさを思うとき、快くむしろ楽しいものであった。私はたくまずとも体が軽く前へ出ていく感じで、張り切って過ごすうち、入隊教育を百人中首席で終了した。

 周知のように旧海軍では、軍令承行令によって、部隊等の指揮権は、兵科、次いで機関科の将校に限り与えられ、いわゆる各科士官は除外された。海自は、ラインオフィサー(一つづきの士官群)制度を採用し、指揮権は、全幹部について、毎年海幕人事課が発表する名簿の番号順に継承される。私は、その後の全経歴を、この時の三尉四十名中、常に首席の順位で終わった。

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    中村君の寄稿文は、更に続きますが、紙面の都合で

   ここまでとし、爾余の部分は、基本ファイルに記録を

残します。               (編集部)

 

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