誘拐 キッドナッピング

              K 島 田  敏 夫

 

一九八六年に、三井物産の若王子マニラ支店長が誘拐されるショッキングな事件が起きて、海外に駐在する商社マンを恐怖のどん底に突き落とした。筆者自身も、中米のエル・サルバドルの中米三菱商事に勤務中に、テロの誘拐対象者のリストに載せられたことがある。

一九七八年四月の暑い日だった。中米三菱商事の社長をしていた筆者の事務所に、インシンカ社(蝶理と東洋紡のエル・サルバドルにおける合弁会社)の松本社長から麻雀の誘いの電話があった。そして、これがこの世における筆者と松本さんの最後の会話になってしまった。

その日の夕刻、インシンカ社のオフィスの前を通ると、オフィスの内外がいつもとは違った異様な雰囲気に包まれ、何故か電気がこうこうと輝き、人だかりがしていた。「何だろう?」と運転手に聞くと、「フェイスター(お祭り)でしょう」と言う。ところが、車の中のラジオが「インシンカの松本社長が何者かに誘拐された」と何度も臨時ニュースを流しているのを聞いて、筆者は愕然とした。あのオフィスの騒ぎはこれだったのだ。

さあ、それからが大変。エル・サルバドルの日本人会長をやっていたので、筆者の社宅に在留邦人をはじめ、日本のNHK、読売新聞社、朝日新聞社、時事通信社、アメリカの新聞社などからもひっきりなしに問い合わせの電話が殺到してきた。松本さんの生死に関する情報は何も入ってこない。辛抱強く政府と交渉を続ける林大使に、国家警察庁長官から「テロのアジトで発見された誘拐対象者のリストに、林大使と島田の名前が載っているから、十分気をつけるように」とのアドバイスがあった。それからの恐怖の日々。社宅と事務所には武装をした国家警察から派遣された警備兵を配置するほか、社有車の運転手の横には軽機関銃を持たせた警備兵を乗せて、毎日異なった時刻に、異なった服装をして、異なった道順で事務所へ出かけた。

警備兵とて信用できる保証はない。大使公邸では、警備兵がテロの手引きをしているとの情報も入ってくる。目には見えない、何とも重苦しい恐怖感が、筆者や筆者の家族を襲ってくる。家族は一歩も外へ出られず、家の中の庭をぐるぐる熊のように歩くだけの日が続く。

ようやく誘拐犯人からインシンカ社に電話で接触があり、犯人は松本さんの生命と引き換えに百万ドル(二百万ドルとの噂もとぶ)の「身の代金」を要求してきた。だが、松本さんの生命の保証は全くない。国家警察庁からは、松本さんが殺害されたとの情報も入ってくる。何ともやり場のない、不気味な毎日を過ごしながら、日本人会は大使館と協力して、暑い日差しの下、検土棒で松本さんの遺体を捜索して歩いた。

十月にはいって、最も悲しい事態が起きた。警察が遺体を発見したのである。サン・サルバドル郊外の洞窟の中に、お腹に刃の傷を負って松本さんは静かに眠っていた。

「絶対に同じ時刻に、同じ道を通って事務所に行かないように。油断してはいけない」筆者は繰り返し在留邦人に呼びかけた。だが、若い人たちには通じない。「大使とか社長だけが気を付ければいいじゃないか。われわれは関係ない」彼らは、依然として同じ時刻に、同じ道順を通り、夜は映画を見に出かけた。そして、あってはならないことがまた起きたのである。同じインシンカのS経理部長が白昼、昼食に帰宅する途中に、自分が運転する車の前後を犯人の車に挟まれて、誘拐されてしまった。同氏は非常に几帳面な人で、毎日全く同じ時刻に、同じ道を通って昼食のために帰宅していた。犯人はそれを十分計算していたのである。

この事件で、身の危険を感じた筆者は、駐在員の家族をマイアミに避難させた。中米三菱商事の監督場所である米国三菱商事の三村社長から、筆者にも国外に脱出するよう指示が来た。筆者は海軍精神よろしく、「艦長は艦と運命を共にするものです。事務所を離れるわけにはまいりません」と格好のいいことを言って頑張ったが、「三菱商事の責任者が居残れば他の商社も追随するだろう。もしものことがあったら、その責任は逃れられない」と叱責され、コスタ・リカのサン・ホセ市に新事務所を設営して移動した。

中米三菱商事は、メキシコを除くグアテマラ、ホンジュラス、エル・サルバドル、ニカラグア、コスタ・リカ、パナマ、ベリーズの諸国とカリブ海のハイチ、ドミニカの九カ国を管轄しており、実に数千キロの広大な範囲をカバーしていた。このため派遣社員は機内出張の連続で何カ国も飛び回り、途中マイアミに立ち寄って家族を慰労した。(S氏はその後日本の本社が身の代金を払って釈放された。)

この事件が起こるまでは、エル・サルバドルは、我々日本人にとって正に天国であった。対日感情は抜群によく、「中米の日本」と称されることを誇りにしていた。それはまず、人種的にラテン・アメリカ国民は、アリューシャン列島を渡ってきたアジア系人種であるという意識があったからである。顔型、肌色、髪など日本人に似ていることを自覚しているのであろう。そして第二は、国土狭小、少ない資源、稠密な人口、火山、地震といった自然条件の相似性が挙げられよう。サン・サルバドル市にある平尾公園(パルケ・イラオ)という日本庭園が連日賑わっているのは、この現れであろう。

ベネケという親日家の筆者の友人がいた。駐日大使を二度勤め、文部大臣にもなったが、その間エル・サルバドルの教育制度を、日本のそれに真似て改革したというエピソードがある。彼はリベルタ港に近い海岸に「あたみ」というリゾートを作り、日本の留学生を勧誘して研修の機会を作った。「あたみ」のレストランの牡蠣は大きく美味で、筆者も多くの日本の方と楽しみを分け合ったものである。そのベネケさんも、一九八〇年五月に、家から出かけるところで、テロの凶弾にあたら若い命を絶たれてしまった。天国サン・サルバドルは、筆者にとって胸の痛い、悪夢の街と化したのである。

 

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