私を語る(海経入校前後の回想)             

J 菅 沼  精 一

 

私は自己を顧みて、現在に至る自分の個性と人間形成に最も大きく影響を与えたものは一体何だろうとふと思うことがある。考えるに、それは次の四つのことではないかと思う。

第一は士族の家に生まれたこと、第二は幼い頃から柔道を始めたこと、第三は斉藤英学塾へ通ったこと、第四は海軍経理学校の教育を受けたことである。若しこのうち何れか一つが欠けていても、私の自我や人生は全く異なったものになっていたであろう。

私は昭和二年、静岡県浜松市において五人兄弟の長男として生まれた。父は、市内で印刷と印鑑を扱い手広く商売を営んでいた。その家風は、極度に厳格な祖父の代とは異なり、子供に対する教育方針は自由で明るく放任主義であったが、士族という昔年の面影も残し、長男は家門の責任を担う者としてやや別格に育てられてきた。このような中から、私は幼心にも武家の生まれという素朴な「矜持と気概」といったものを感じ取っていた。言い換えれば、決して「後ろ指を指されたり、他に遅れをとってはならぬ」という思いを強く抱くに至った。それは、後の中学時代、「清廉潔白」、「死而後已」を座右の銘としたことに通ずる。特に後者は私にとって「人間死力を尽くせば何事も成らざる事なし」という信念として、「自己鞭撻の源泉」となった。

次に柔道であるが、小学五年のとき、校内の道場で上級生の自由稽古を見て、これは面白そうだと加わったのが始まりである。私の体位は略中位であったが、偶々、若干の素質があったのか、頭角地を抜くところとなり、全市の小学校大会に出場、団体戦と個人戦の双方ともに優勝を果たした。また中学一年の正課では、同級生約二十人余を相手に独りで全員をなぎ倒し一躍校内で勇名を馳せた事もある。中学では四年の春に二段を取ったが、五年では海経入校前のため大事を取って昇段試験を控えた。当時行われた厚生省の体力章検定では四年で上級を取得した。海経入校直後の段位の再審査では上級生徒四、五人を続けて投げ、その儘二段の認定を受けた。在校中は分隊対抗戦で優勝、個人戦では三号を代表、独り準決勝まで戦った。厳しい生徒生活の中で、私にとって柔道は良い気晴らしの場でもあった。戦後は大学まで続け四段をとったが、柔道では愉快な思い出が多い。柔道を通じて得たものは「質実剛健の気風」と「自己体力への絶対の自信」であり、後々実社会へ出ても大きく身の助けとなった。

第三は斉藤英学塾に通い英語と数学を学んだことであるが、これは、私の将来の人生にとって決定的な意味を持つものだったと思っている。私は、ここで初めて「勉学に対する興味と執念」に目を開かせてもらったからだ。同私塾は、市内でも圧倒的な進学率を誇り、厳しい教育が有名で、塾生には市内各中学のトップクラスが多かった。中学三年の春、これら秀才たちを相手に私は猛烈な勉強を開始した。体力に任せての追い上げは、一人抜き二人抜きの実感を伴い、何よりも愉快だった。師は、単に語学に留まらず、その博識は歴史に、文学に、哲学に、芸術にと広範にわたり、これによる授業中の脱線話は塾生に広く学問に対する無限の興味を誘い出して止まなかった。

若し私がここで学ぶ事が無かったならば、商業学校生の私が果たして海経に合格できただろうか、続く戦後の静高(文科)、京大(経済)の進学も夢のまた夢と、その後の人生は一変したものであろうことは間違いない。同私塾での勉学は私の将来を決める原点だったと思っている。

文武両道という言葉があるが、私における文の開眼は幸い優れた師に巡り会えたことによるものと、今なお感謝の念を忘れないでいる。当時の最難関海経の合格通知を受けたとき、私は田舎者が初めて全国大会に出場し、思いもかけず優勝してしまったかのような快感に酔ったことを思い出す。因みに、昭和十九年度の三七、三八期の海経合格者は全市で四名、このうち三名を同塾の塾生で占めた。(更に一名、隣接市から三号同分隊の浅井寛君も同塾出身。)

第四は海軍経理学校で受けた教育である。わずか一年弱の期間であったが、そこでの全人格的教育は私の人間形成にとって極めて貴重な体験であった。ここで私は確かな「国家観」、自己凝視を通じた「人間観」、そして柔軟かつ合理的な海軍の「行動様式」を学ぶことができた。戦局は愈々苛烈を加えるとき、私は身を海軍という場に移し、真に国家の命運を担うべき一員としての重責と誇りを感じたものである。

当代日本第一流の教授陣による知育もさることながら、起居一切、如何にあるべきか、日常の厳しい訓育を通じて体得したその行動様式は現在の私の中で今も活かされている。

経理学校を語るとき、その所属が「鬼の十一分隊」であったことは奇妙に私の誇りにさえなっているのであるが、それは殊更猛烈な鉄拳の試練にも耐え抜いてきた自負からだと思う。ここで得た「不撓不屈の精神」は、私の人間形成の貴重な財産となった。

分隊対抗の短艇競技で三番?五番?を漕いで優勝したこと、柔道で優勝したこと、棒倒しではその最下端部守備陣三人中の一人としてこれを担ったことなどは、私にとっての勲章として、誇らしく思い出される。

それから既に六十年、戦前に比し今や国は富み、暖衣飽食の世となったが、内には公徳心の欠如、自己中心、忍耐力の不足、国旗・国家・靖国の軽視、愛国心の希薄、外には東京裁判史観の呪縛から今もって脱却できぬ国益軽視の謝罪外交、対中国・対北朝鮮・対韓国問題等々、嘆かわしく腹立たしいことはなお多い。憲法の改正、教育の刷新は先ず第一に解決さるべき課題だ。乱れた世相、遅々として進まぬ問題解決への苛立ちは、また案外私のボケ防止に役立っているのかも知れない。

最後に一言、勝手な事を言いつつも、互いに「俺、貴様」の共感の中で理解し合える「海経三七会の絆」は我々共通の宝、いつまでも共に大事にしたいものである。

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