肺の手術を受けて

                 E 網 代  嘉 一

 

昭和五十七年四月のあの頃のことは、今でも記憶に生々しい。三月末の某日、私は一泊の人間ドックで健康診断を受けた。当時、私はN社O工場で施設部長をしていたが、会社の中期経営計画に基づき、部内の合理化を十月から実施するため、計画の作成に多忙な日々を送っていた。

四月五日、人間ドックの結果報告書が会社に届いた。今まで何度かの検診ではいつも問題がなかったこともあり、何の躊躇もなく報告書の封を切ったが、呼吸器系の欄を見て愕然とした。判定欄に「肺腫瘍の疑い、要精検」と記載されていたのである。咄嗟に閃いたのは「肺癌では?」ということである。

私は五十四歳――癌ならば進行も速くすでに転移しているかも知れない。幾人かの知人の手術・退院・再発・再手術の繰り返しの後の死が思い出された。もし癌ならば、家族の悲嘆も勿論だが、ここで会社の戦列を離れれば、合理化計画の責任を果たせなくなる。何よりもこれが一番口惜しかった。

夜、帰宅して妻に話し報告書も見せた。「まだ癌と決まったわけではないのだから――」と、暫くして妻はボソッと言ったが、思いは私に勝るものがあったろう。その晩は病院をどこにするかなどを相談し、規模も大きく、施設も良い私立K病院に――と決めた。その晩はさすがに、会社の仕事のこと、自分の将来、家庭のことなど、とめどもなく脳裏を去来して眠れぬ一夜だった。

翌朝になると、捨て鉢な気持ちも手伝ってやや元気が出て来た。出社後仕事の流れに入ってしまうと、深刻な問題など何もなかったのではないかというような気さえしてきた。

午後妻からの電話で、弟の妻の妹がK病院に勤めており頼み込んだところ、四月九日に来院するようにと話がついた旨連絡があった。

四月九日、会社を休み、妻を伴ってK病院に行きX線検査を受けた。呼吸器外科のK先生の説明では、「ドックで診てもらった結果と同じです」とのこと。「左胸部心臓の上のところに拇指大の『何か』がある。結核の古い病巣か、良性または悪性の腫瘍かと思うが開放してみないと判らない。悪性というのは『癌』です」 先生の話は、慎重に一言一句を選んでいるように思え、専門医であれば経験的に判っているに違いない。しかし、癌患者に直接「癌です」と言うはずはないから、妻や家族には別途に話すつもりに違いないなどと考えた。何れにせよ、手術は免れ得まい。覚悟を固めなければなるまい。後戻りのできない崖っ淵に立つような自分の気持ちを自覚した。昭和十九年秋、海軍経理学校に入校のとき、これに似た気持ちになったような気がする。

K病院の帰途、妻が「Oさんのお墓にお参りしましょう」と言った。Oは私の親友で中学の同級生だったが数年前交通事故で逝っていた。妻の提案の気持ちは私にもよく分かった。丁度彼のお墓にお参りした時、その間だけ猛烈な雨となり、この俄か雨は私達がお墓を離れたら止んだ。何かの暗示のように思えた。

四月十五日、この日入院した。

胸部断層写真約十枚。そして「深さ十二センチのところに直径四センチ位の塊が見える。場所は左肺の上葉下部である」と説明があった。

四月十六、十七日、引き続き次の検査。採血、胸部X線、血沈、血液型、心電図、肺活量、気管支鏡、気管支造影、胃と食道の透視。手術は四月二十二日と決まる。

四月二十二日、手術(以下妻のメモ)。手術は簡単だったとのこと。執刀は呼吸器外科部長H先生で所要時間は約一時間半。左肩甲骨に沿い左脇下まで約三十センチ切開。輸血なし。手術後、妻、次男、弟達が剔出物を見せてもらう。円形、白色、大臼歯の集合体のようで、大きさは卵の黄身ぐらいだったそうである。

四月二十六日、H先生回診時の話。剔出物は東北大に送り精密検査中。悪性ではなかったので安心するようにとのこと。その後、五月中旬東北大の検査結果が出、剔出物は軟骨腫、即ち良性腫瘍と分かった。発生の頻度は一万人に一人の割合で、珍しいケースだそうだ。

五月十九日、この日退院した。入院後三十四日目である。この日は陽光燦めく五月晴れの日で、私の気持ちをそのまま表してくれているようだった。それにしても、腫瘍が良性か否かは開けてみなければ判らず、運を天に任せるしかなかったのに、結果が「良」と出たことは人力の及ばざるところ。正に神仏のご加護によるものとしか言いようが無い。

最も気がかりだった合理化計画も、七月には遅れを取り戻し組合との話し合いもついて、十月には予定通り実施に移すことができた。私は肩の荷を下ろし心からホッとした。

 

寄稿文目次へ戻る                         次ページへ