賢兄・愚弟

                 B  地  光 雄

 

私と兄、地敬次とは三つ違いである。大正十三年九月二日が兄の誕生日、昭和二年八月三日が私の誕生日である。

小学校は二人とも横須賀市立山崎小学校、この小学校は総理大臣の小泉純一郎も卒業した学校で、一応有名になっている。

兄は、この小学校で一年生から六年生までの通信簿の成績は各科目全部甲(当時の成績評価は甲乙丙丁の四種目)で、神童と言われた生徒である。一年が三学期だから六年までの十八学期を通して、全部甲がきれいに並んでいる珍しい通信簿である。勿論、全学年を通して常にトップである。運動も野球部に入っていて五年生からショートストップのレギュラーで、市民大会にも出場した名ショートであった。小学校六年の時に、全国作文大会で「私の母」と題した作文が第一席となり、時の文部大臣永井柳太郎先生から賞状を頂き、当時の新聞に大きく報道されたこともある。

私は、末っ子で可愛がられたせいか、甘ったれで兄の勉強の邪魔をしてはケンカの種を作っていた。朝・昼・晩と三度の食事には必ずケンカをしたものである。とにかく、三つ違いは私にとっては運の悪いめぐり合わせで、小学校でも中学校でも、兄を教えた先生が、どういうわけか私の担任になるのである。小学校では、兄を四、五、六年と担任した角田錦弥先生が、私の五、六年の担任となり、兄と比較されるのである。「お前は出来ない::お前は出来ない::」とよく言われたものである。それでも、私は小学校五年では六番で優等生、六年では二番の優等生だったのである。

中学校は、兄は、勿論名門の神奈川県立横須賀中学校(この学校も、小泉総理やノーベル賞の小柴昌俊先生の卒業した学校である)に優秀な成績で進学しているが、私の方は何とか合格。

中学校に入っても三つ違いの運の悪さは引き継いで、兄を教えた先生が、国語も、英語も、数学も、理科も担任である。兄の重圧は続いたが、幸いにして私が一年三学期のとき、兄は四年終了で陸軍士官学校に合格した。昭和十六年三月のことである。これで兄貴の重圧はとれた。勉強部屋を一人で占領してバンザイである。

この年の十二月八日、太平洋戦争が勃発、国家は軍国主義一色に固まってゆくわけだが、兄貴が休暇で軍服姿で帰ってくると、その雄姿にすっかり憧れて、「よし俺も陸士に行く」と張り切ったものである。

兄貴の後を追って四年で陸士を受験したがあえなく不合格。やっぱり賢兄愚弟である。

中学五年となり視力が落ちたため陸士を断念、海軍経理学校に方向転換して猛勉強、何とか難関を突破して昭和十九年十月に海経に入校。この調子でゆけば少佐で兄貴に追いつくと思って張り切ったが、敗戦で夢は破れてしまった。

中支で行方不明になり戦死扱いとなっていた兄が、昭和二十一年十二月、ひょっこり帰ってきて、嬉しいやらなにやらで大騒ぎ::。しかし、兄は戦時中の胸部疾患が再発して昭和二十四年に肺結核手術をして入院療養。元気になった昭和二十五年十月に横須賀の若松町に「ピンク洋装店」を設立、堪能な英語がプラスして進駐軍相手の婦人服仕立て、生地売りが大成功。昭和二十八年十月には横須賀随一の繁華街である三笠銀座商店街に進出(現在の本店所在地)、更に拡大して磐石の地位を築いた。

しかし、天は二物を与えずで、翌年の昭和二十九年二月に胸部疾患の再発で急遽入院、四月二十八日に手術中に死去。一時は途方に暮れるのみとなった。これで弟の私の人生は一八〇度転換。勤めていた東洋経済新報社を退職してピンク洋装店を継ぐことになったのである。

今は、兄貴が基礎を作ってくれたお蔭で何とか五十三年目の歴史を迎えることができているが、兄貴のお蔭で今があり、賢兄愚弟の思い出は懐かしいものである。兄貴が元気でいたら「今の横須賀はもっと変わっていたかも知れない」などと思いながら兄のおもかげを偲んでいる。

先月の四月二十日には、兄の小学校、中学校の同期生数名に来て頂いて、兄の五十回忌の法事を行った。「地は優秀だったなあ」と揃って思い出を話してくれて、懐かしくも賑やかな良い供養になった。賢兄愚弟の思い出に何か一くぎりができたようで、今は「ほっと」している。

                     

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