終戦の思い出

                 M 立 花  士 郎

             

今年も終戦の日を迎えた。五十七年目である。

あれから半世紀以上も経過した今日、品川から垂水へと続いた海経時代の思い出も、残念ながらかなりの部分は忘却の彼方へ去ってしまい、漠然且つ断片的にしか思い出せない。しかし、終戦から学校解散、帰郷、そして再出発という流れは、その後の人生の転機となっただけに、不思議なほど格別な思いとして脳裏に深く刻まれている。

昭和二十年八月十五日、あの日は真夏の暑い日差しのなか、早朝から垂水の奥深い丘の中で農耕作業(松根油の採取)をしていたが、突然、昼までに学校へ戻れとの命令が下り、全員駆け足で学校へ引き返し、汗だくのまま軍装に着替えて校庭へ整列、炎天下全身から大粒の汗を流しながら、直立不動の姿勢で玉音放送に聴き入った。

スピーカーの音が雑音で聞き取りにくかったが、どうやら戦争は終わったらしいということが分かりかけたとき、緊張していた全身から一度に力が抜けて行くのと同時に、私は眼前がボーっと黄色くなって意識を失ってしまった。そして気が付いたときは、放送も終わって校庭の片隅で仰向けに横たわっていた。恐らく今でいう熱中症で倒れたのだろうと思うが、その後玉音放送を耳にしたり終戦の日を迎えると、この一連のことが鮮明に思い浮かんで頭から離れないでいる。

終戦の日から一週間後、学校解散により各自帰郷することとなった。東京の実家は三月の空襲で全焼し、両親は出身地とは無縁の山形市内に移住していた。初めは東京経由でと考えていたが、大阪駅のホームは陸海の復員の人々で溢れ、あちこちで喧嘩騒ぎの混乱ぶり、そこで日本海沿いで乗り継いで行こうとしたが、こちらも大混雑、それでも何とか客車の連結部分(現在のような幌はない)に、身体を半分程割り込ませるようにして乗り込むことができた。

途中、真っ暗闇の中を走る列車の騒音、汽笛や煤煙に悩まされつつ、若しもこの連結器が外れたらと、恐怖に脅えながらの命懸けの夜行列車であった。羽越本線の余目(あまるめ)駅に着いたのが夜半過ぎで、仕方なくホームのベンチで一夜を明かした。駅の周辺は一面水田で静寂そのもの、そんな中で果たして未知の自家へ無事辿り着けるだろうか、日本はこれからどうなるのだろうか、と不安と焦燥で眠れぬまま夜明けを待った。余目から新庄経由山形までは穀倉地帯、車窓から見る朝日を浴びた緑一面の田園風景は、日本は本当に戦争していたのだろうか、と現実をしばし忘れさせる長閑な風景で、今でもこの目にはっきりと焼き付いている。

帰郷後、地元の高校に編入学できたが、戦災で家財はすべて焼失していたので、持ち帰った軍服は学生服に、軍帽は白線帽にと、母が仕立て直してくれたことも懐かしい思い出である。

私は小学校低学年までは病弱で、特に一年生の夏に水泳のやり過ぎで肋膜炎を患い三カ月入院、その後再発したら命はないよとの医師の勧めもあり、大事を取って一年休学した。おかげでその後大病もせず、海経時代の猛訓練にも耐えて、また戦後五十年のサラリーマン生活も無事終えて自由の身となり、現在、日々の健康に感謝しつつ余生を楽しんでいる。

先日の新聞では、日本人男性の平均寿命が七八・〇七歳(二〇〇一年簡易生命表)に延びたと報じていた。長生き、真に喜ばしいことであるが、心身共に元気で::となると、思い通りにならないのが現実であろう。そこで、私はあまり加齢を意識しないために、内外の著名人に愛誦されているあのサミュエル・ウルマンの「青春の詩」を、折に触れて読み返すことにしている。この詩に流れている逞しい意志、豊かな想像力、燃える情熱、未知への探究心などは、年代を超えた心の持ち方を教示しており、深い共感を禁じ得ない。人間誰しも年を重ねることは避けて通れないが、この詩に読まれているような生きる力だけは、ぜひとも持ち続けたいものである。

私の両親は兵庫県の出身であるが、今はお墓だけが西明石にある。フリーになってから毎年墓参を心がけているが、いつもJR垂水駅を通って山側、海側とすっかり変わった景色を眺めながら、あの苦しかった駆け足や短艇訓練のことなど、往時の懐かしい思い出を偲ぶことにしている。そして元気でいる間は、できる限り続けたいと願っている。             

 

寄稿文目次へ戻る                         次ページへ