我が人生、悔いのあるなし  

L 坂 東 玲 芳                                   

 

昭和二十年八月十五日、垂水での終戦時、私は急性肝炎に続き胸膜炎に罹患、療養中であったため、数日早めに復員した。降り立った徳島駅はバラックの切符売り場があるのみ、町は見渡す限りの焼け野が原であった。私の古里は、この徳島市からさらに吉野川沿いに西に遡ること約三十キロの阿讃山脈の麓で大俣村といい、後、合併して市場町となり、平成の大合併で、今は、阿波市となっている。ちなみに、私の学んだ脇町中学は、この古里からさらに西方十四キロで、砂利道を自転車通学し、おおよそ一時間を要した。        

復員浪人の身で終戦後の混乱期、これからの進路に大いに悩んだ末、同じ県内の徳島医学専門学校(現徳島大学医学部)に入学、医師を志し、昭和二十六年三月卒業、一年間のインターンを経て、医師免許を取得、内科医師の道を歩み始めた。昭和三十五年春、私は麻植(おえ)協同病院に内科医長として赴任し、副院長、院長として、人生の大半の三十九年間を過ごすこととなった。この病院は、徳島の西方十八キロの鴨島町にあり、徳島県厚生農業協同組合立の病院で、同系統病院で有名なものに長野県の佐久総合病院や土浦市の土浦協同病院などがある。赴任当時の病院ベッド数は百少々、現在のベッド数は三百二十三、徳島県下の地域中核病院の一つとなっている。 

病院の勤務では、日常診療の傍ら、農村巡回検診や農村医学的研究にも力を注いだ。農村医学には、産業医学の一分野と考えられる農業医学と農村衛生の分野があり、私の研究は、農村婦人の貧血、肥満、農薬中毒、農業に関係するアレルギー、飲酒と健康の関連等多岐に亘った。幸い、これらの結果が認められ、徳島新聞賞や日本農村医学会賞を頂いた。まさに、望外の喜びであった。      

昭和六十三年院長、平成六年名誉院長となって勤務の後、麻植協同病院を辞した私は、平成十一年からは現在の祇園リハビリテーションクリニックに院長として働いている。このクリニックは、特別養護老人ホームに併設されたもので、所謂、通所リハビリテーションを希望する人達のための施設である。現在週三回の勤務であるので、心身の負担もさほどでない。しかし、私たちと同年代の患者さん達が多く、リハビリ以上に大事なものは、発病予防であることを今更のごとく痛感している。                  

はや十七年の昔になる。この昭和六十三年夏、阿波踊りを期して三七会総会のお世話をした。見る阿呆ではなく踊る阿呆になろうと海経三七会連の俄か連を結成繰り出したのである。阿波踊りには、お囃子を別にして、それなりの衣装が必要であり、その衣装の調達は、六年前になくなった妻が担当してくれた。特に女性では、踊り前の浴衣の着付けが、大変であった。てんやわんやの後、繰り出したときには、ひいき目もあろうが一応それなりの踊り子になっていた。踊り連の提灯を提げて先頭にたっていた日下君、そして、世話役だった妻礼子も、ともにこの世の人ではない。懐かしく、また、はかない思い出である。                    

私は、今、七十八歳、これだけ生きてきて、この人生、各種、大小様々な悔いがある。しかし、いくら悔いてもやり直しはきかない。この意味では、我が人生に悔いなしとも言えるかも知れない。                 

 寄稿文目次へ戻る                         次ページへ