高温多湿の坑内現場の思い出

                  L 鈴 木  昌 信

 

海経三七会諸氏の終戦後の足跡をみると、十人十色とは言いながら、事務系等、就中やはり経理経済部門において、戦後の復興と繁栄の原動力となり大きな活躍をされている方が多いようである。

それに対し、私は全く専門違いに、自然条件が過酷で高温多湿、毎分百三十トン、湧出温度摂氏七十度の温泉と戦いながら石炭を掘る常磐炭砿に入社した。入社人員は事務・技術併せて二十二名の大学・高専卒で、これが福島県いわき市の磐城砿業所と茨城県の茨城砿業所に二分して配置された。この同期は、入社人数から二二会の名称で固い団結と親睦の環となり、大きな力となって活躍した。戦時中既に軍籍にあった人や生産現場に学徒動員で参加していた経歴の持ち主もあり、社会人として確かな集団であった。

この頃、国内は戦争による国土の荒廃や衣食住の極度な欠乏、激しいインフレ、失業、生活苦など、想像を絶する苦難に喘いでいた。これに対して、国は石炭産業を基幹産業、傾斜生産方式による最優先産業とし、大増産のための強化が図られた。我々が戦時中乗艦実習で目の当たりにした燃料の状況や、また、松根油採取のために真夏の炎天下に松林の松にロープを掛け掘り起こしたことを思い出す。戦後になっても流体燃料の払底は続き、そのため唯一の国産燃料である石炭が独り「黒ダイヤ」と呼ばれ、いくら掘っても掘っても品不足の引っ張りダコであり、広い貯炭場も貯まる暇が無く無用に空いていた。坑内現場はいやが上にも生産意欲に燃え、一日八時間ずつの三交替も、後方が切り羽に入ってきて、そこで面(つら)交替するような光景も再三であった。三交替の係員始め採炭夫の人達や関係者全員一丸となり、文字通り褌一本の裸、汗まみれで出炭の競争であった。

坑内の掘削は大きく分けて採炭(炭掘り)と岩石掘進(岩延び)があり、採炭は更に長壁式採炭と石炭掘進(炭延び)に分類される。発破に使用する爆薬は、安全の点から岩石には新桐ダイナマイト、石炭には硝安爆薬が使用された。発破方式は昭和二十年代後半には電気発破となり、これは切り羽から規則に定められた安全距離まで電線を通し、防壁の陰に体を入れて発電機により発破を掛ける方式で、これにより私達は安心感をもって発破をかけられるようになった。それ以前は導火線方式であり、爆薬の装填をした切り羽に体を置いて所定の長さの導火線に渦巻き型の線香で順番通り点火する方式であった。高温湧水などのため時計は使えず、短い試験導火線により点火開始後の経過時間を知る方法なので、もし点火に手間取っていつまでもぐずぐずしていたら重大なことになるのである。その場合、短い試験導火線が燃え尽きたら直ちに切り羽全員に安全な待避所に退避を指示するわけである。切り羽は湧水や滴水で濡れていることが多く、導火線の点火口を濡らさないよう油紙できつく被いをし、点火は素早く油紙を外して本数を誤らぬように施行する。この発破の瞬間は最高に緊張したものである。常磐炭砿の自然条件の厳しさは国内でも有名であったが、労使関係は良く、一山一家、安全第一をモットーとして現場の改善に努力していた。

時あたかも、昭和天皇には全国の戦後復興などをご視察のため巡幸遊ばされ、昭和二十二年八月に磐城砿業所の湯本第六坑にご入坑になられた。私は、幸運にもその頃六坑々内勤務であったので、坑内ご巡幸の坑道に整列してお迎えすることができた。人車を降りられた天皇は、先導者のご案内で大勢の随行者や報道関係者達の間をお進みになられ、大歓迎の従業員の列にお手を挙げてこたえられた。その時何と、前列に並んでいた私の前で、お言葉を賜わった。そのお声には本当に感激の極みであった。この現場は早速全国映画館で上映され、郷里の友人からも喜びの電話を頂いた。ご巡幸は全社員の栄誉であることは無論、地方住民の復興意欲をさらに盛り上げた。今テレビ局のキャスターをしている関口宏氏のお父さん佐野周二氏は、当時人気俳優として活躍されていたが、「山の男」という湯本砿のロケで来山され、大勢の見物人を喜ばせたものであり、湯本で上映された時は、私も家族連れで見に行き、満員の盛況であった。

石炭の冬場の需要は更に素晴らしく、坑内の整備も進み設備の機械化、オペレーターの訓練など着々と進められた。習技生の制度が出来て、高校卒を専科生、中学卒を本科生と呼んで専用の現場を設けて教育訓練した。私は、初回からその係員となり、その後主務者として若い人たちと一緒に仕事をした。若さに加え忠実に指示を守ったので素晴らしい工事も完成し、岡部砿長から賞賛された。それは四十五度傾斜の岩石の配管坑道(距離百米余)を殆ど怪我人も無く掘削したことである。岡部砿長は故人となられたが、東大から海軍技術士官となり、戦後常磐炭砿に入社された方で、私がこの方の指導を長く受けられたのは幸せであった。

寒さの厳しい東北の農家にとっては、冬は農閑期となり、その労働力は炭砿の季節砿員として大きな生産力となった。東北人らしく純朴であり、農家で鍛えた体力は見事であり、高温高湿度に対しても毎年来ているので相当に慣れていた。炭砿用語で、私達若い係員でも二十代後半で「親父」と呼ばれ、何となく親しみを感じ、緊張した坑内の空気を和らげた。常磐にはまた、「あかまり」という一種の熱中症がはやり、全身の筋肉がコブ状になって硬直し大変苦しいものである。これを防ぐには、水風呂で適時体を冷やし十分水を飲み塩をなめる。人によっては、自宅から梅干を持参して食べる人も少なくなかった。

そうこうしながらも、社会は合理化が進み、石油各社は外資と技術導入を図り、炭労ストにより急激に燃料の重油転換が実施され、石炭の斜陽化は明らかになってきた。また、大気汚染防止のため国鉄の電化が進められるなど、石炭の需要は大きく後退した。社内機構が改革され、多くの系列会社が創設されるなどの対策が実施された。この当時の激しい動きを述べることは枚挙しきれないので、私の仕事となった、炭砿にとって最も危険なメタンガスの有効利用について、要点を述べることにする。

当時、西部砿(旧磐崎砿)の一カ所から出た坑内ガスをパイプで小名浜の(旧名称)日本水素工業(株)に送っていたので、ガス開発課を新設して都市ガス事業としたことである。結論を先に言えば、これは見事に成功した。まず、遠田ガス開発課長(機械)と私と、私の同期の金成課員(機械)の三名で、北海道の諸炭砿―三井(砂川)、北炭(幌内)、住友(赤平)など―のガス抜きとその利用を視察に行ったのであったが、これら炭砿の担当の方々は実によく説明してくださり、今でも心から感謝している。

地質上のガス蓄積等については、当時東北大学教授をされていた恩師の故江口先生に教えを受けた。ガス抜き試錐は坑内と坑外から施行され、誘導管は素晴らしく延びた。供給区域内の会社の病院のボイラー、事務所、全住宅や新たに常磐共同ガス会社を設立し、街の温泉旅館や一般住宅にもどんどん普及した。この矢先、前述の遠田課長と金成課員は常磐製作所(株)に転勤となり、苦労を共にしたお二人と離れた。

この頃私は、東部砿(湯本砿と鹿島砿)で温泉水位の低下とガス抜きの仕事をしていたが、また、古巣に戻りガス専門になった。住宅のガス使用量は夏と冬とで大きな格差があり、その調整に苦労していた。それで労組と協議しては社内全住宅にガスメーターを付け、大きな節ガスができた。その後、東邦ガス(本社名古屋)の平工場に原料ガスを供給したことにより、更に安定供給のため球型ガスホールダーの一基増設を進言し、炭砿景気の悪い時であったが承認され、着工した。

しかし、兄亡きあと高齢の父の健康問題もあり、退職することとなったが、後任は今まで私を一生懸命補佐してくれた吉田裕人氏(秋田大卒)が引き継いでくれ安心であった。大勢の方々がお見送り下さり、本当に胸に迫るものがあり、また、妻や中学生の娘に泣かれたのには困ってしまった。

この吉田氏が去年十月、三十五年ぶりに会いに来られ懐かしさで話は尽きなかった。義弟が常磐興産の監査役をしており、大勢の先輩が苦労した高温の温泉は量・質とも磐石と誇っていた。

 

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