戦後生活三題

                 L 駒 井  寛 治

 

昭和二十年七月の空襲で、甲府市は、全くの焼野原となった。我が家も焼失し、家業の質屋の再開は思いも及ばず、親子五人が手作りのバラックで日々を過ごしていた。また、当時の社会は、貧困・混乱・荒廃を極めていた。それらを今から思うと隔世の感があるが、その苦難の時代を克服して今日に至ることができたのは、海軍経理学校の教育に負うところが大きかったと痛感している。

一 米国関連生活

 「自分と家族のため、早く自立したい」、「日本を破った米国(人)を知りたい」との思いが、終戦直後は強かった。そのため、青山学院と明治学院の両校に学び、課外はESSと哲学研究部に所属し、米英語と哲学・宗教の勉学に励む中で、米国(人)事情の一端を知ることができた。青山学院の三年生になるまでは、家計の負担を考え、一日に平均三、四時間の睡眠で、重労働の仕事と勉学の両立を図った。その厳しさに耐え得たのは海経教育の恩恵であると思っている。卒業後、約一年間、CIC(米軍情報部隊)山梨地区本部に勤務し、毎日米国人に接し、知り得ることが多かった。また、教職を停年退職後、最後の激戦地沖縄、開戦地真珠湾、米本土ロサンジェルスとディズニーランドを、夫婦・娘(二人とも英文科卒)・孫たちと訪れ、厳粛な気持ちと深い感慨と満足感とを味わうことができた。私以外は同床異夢の思いであったかもしれないが、それぞれの人生の中で、将来なにかの役に立つことがあろうかと思っている。これらの旅行で、私の戦後はようやく終わったと感じている。

二 教職生活

 東京都の公立中学校の教員となったのは、自立のため、また、尊敬する恩師の方々の影響、さらには、自分の希望・適性などを考慮した結果である。実際の教育は、法令・制度他様々な制約下でなされるが、教と育、個と集団、自由と責任、基本的躾、学校と家庭や地域、学校教育と組合活動、その他多くの問題への対応は、個々の教員の資質・能力・理念・実践力・経験等によって多大の差異があった。教育効果や評価は後世に任せられるべきものではあろうが、海経教育をうけた経験をもつ私には、責任ある教育の仕事をしてきた自負がある。そして、立派に成長し活躍している後輩や教え子たちの様子に大きな喜びを感じている。印象に残る教育実践の二、三を述べてみる。〈教諭時代〉時間厳守・責任行動・勉強と運動の両立の指導。〈教頭時代〉勤務を終えて帰宅する際には机上に物を置かない。整理整頓の教員による率先垂範指導。〈校長時代〉ブロック活動(縦割学級の活動)を各行事・活動に活かし、同年齢と異年齢の人間関係を深化させ、家庭生活・社会生活にも役立たせる。同窓会の再発足もその延長線上に置いた。

三 読書生活

 戦後の政治・経済・社会の変化と混乱は激しいものがあった。未消化の民主主義や価値観の多様化が叫ばれ、「古いものは悪、新しいものは善」と極端に走り、あるいは、自虐的歴史観や不毛の対立が横行していた。温故知新・修身斉家治国平天下で生きてきた私には相容れないものが多かった。特に、純粋な気持ちで、国や家族や愛する人のために戦った者をも冒?する言動は許せず、よく周囲と衝突した記憶がある。そのために、「いかに生きるべきか」が、私の大きな課題となった。その解決へ向けては、家族はじめ多くの人々の尽力もあったが、読書によるものも多かった。海経教育と自分の歩みを振り返りながら、それらの図書を数冊挙げてみる。「聖書」・「論語」(宗教・信条)、波多野精一「西洋哲学史要」(哲学史)、デューイ「倫理学」(手段と目的)、河合栄治郎「学生に与う」(学生の生き方)、ヒルトン「チップス先生さようなら」(調和の感覚)、下程勇吉「教育原理」(教育の本質・原理・方法)、小泉信三「海軍主計大尉小泉信吉」(家族の姿)、その他(主として理想主義のもの)。

     

結びに、今日までお世話になった教官・先輩・同期の方々に深く感謝申し上げ、物故された方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。私は、二十六歳の折、生徒指導中に背骨を痛めて以来、病院通いが続き、現在も無理はできません。しかし、五病息災で、週末には畑仕事を楽しんでいます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

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