戦後の米作り体験

                 K 牧  野   孝

 

昭和二十年八月、海軍経理学校二号生徒だった私は、夢破れて故郷に帰還した。弱冠十八歳。私の郷里は、神奈川県の北西に位置する足柄平野、東名高速の大井松田インターに近い。現在は大井町となっているが、当時は足柄上郡金田村という片田舎だった。

近くには酒匂川という清流が流れていて、子供の頃は、よく魚を獲りに行ったものだった。鮎や鰍、ウグイなどが面白いようによく獲れた。

川の幸は勿論のこと、近くの小田原でとれる海の幸や、山の幸に恵まれており、気候温暖のせいか、このあたりでは昔から偉人の輩出が少なく、せいぜい二宮金次郎ぐらいではなかったか。

私の家は、昔から、農業の他に、小さな製糸工場をやっており、親父は、会社の経営理念として、二宮尊徳の報恩の思想を実践していた。床の間には、二宮尊徳の肖像画と、報徳訓の漢文の掛け軸が飾ってあり、門前小僧の私でも知らぬうちに、その報徳訓を諳んじていた。

その報徳訓とは次のようなものである。

父母根元在天地令命 身体根元在父母生育

子孫相続在夫婦丹精 父母富貴在祖先勤功

吾身富貴在父母積善 子孫富貴在自己勤労

身命長養在衣食住三 衣食住三在田畑山林

田畑山林在人民勤耕 今年衣食在昨年産業

来年衣食在今年艱難 年々歳々不可忘報徳

さて、実家に戻って、家業の手伝いをしているうち、親父のすすめで報徳訓に基づき、米作りを始めることにした。

以前から、家には、六反五畝(約二千坪)の田圃があって、戦時中他人に任せていたのを引き取ったものだった。

なにしろ、ずぶの素人だったが、一通りの農機具も揃っていたので、見よう見まねでやってみるしかなかった。先ず、終戦で不要になった軍馬を農耕用に払い下げてもらった。この馬は、大砲を引っ張っていただけに、体も大きく、食欲旺盛で、飼うのは一苦労だった。

草刈りは毎日の日課で、籠一杯では足りず、藁をきざんで糠やふすまと一緒に塩を混ぜて食べさせた。馬小屋の敷き藁も、しょっちゅう、取り替えて、それが良好な堆肥となった。

田植え時の田圃の耕作は、最初のうちは馬の手綱をとってもらっていたが、馬も人もなれるに従い、自分ひとりで鋤の作業が扱えるようになった。馬は汗かきのため、一日の仕事が終わると、小川に連れて行って、藁で体を洗ってやった。きれいになると、馬に乗って帰ってくることもよくあった。この馬は、一つの悪い癖があって、田圃道を駆けているうち、急に左に曲がるため、乗っていて、何回か落馬したが、不思議に怪我はしなかった。

落馬といえば、私はその後、北海道で、通算二十八年サラリーマン生活を送り、よくサラブレッドに乗ったが、二回ほど落馬して、眼鏡は壊したが、ほとんど怪我はしなかった。昔柔道で受け身を習ったせいかもしれない。

当時の米作りは、たいへんだった。田植え時は、よく雨が降るが、蓑を着て、菅笠をかぶって仕事をした。蓑といえば、昔の小学校一年の教科書の見出しは、ハナ、ハト、マメ、マス、ミノ、カサ、カラカサだった。私の入学の時から、サイタ、サイタ、サクラガ、サイタ、に変わったが。

終戦時は、肥料も、農薬も何もなく、所謂、完全な有機栽培だった。馬の堆肥だけでは足りず、下肥(人糞)も使った。幸い実家では工場もやっていたため、下肥には、こと欠かなかったが、なにしろ、馬の堆肥より臭く、それを、柄杓で桶にくみ出し、天秤棒で担いで運び出す作業は楽ではなく、特に風の吹いている日に、それを田圃に運んで柄杓で撒く作業は、悲惨だった。

真夏の暑い日に腰をかがめて田の草取りの作業もきつかったが、収穫の時期ともなると、この一年の艱難が一気に報われて、自宅の庭で唐臼の機械から出てくる白米を一俵ずつ俵に入れるのは、何とも言えない気分である。

今は知らないが、当時は、畝取りといって、一反で十俵の米が穫れれば、一人前といわれた。従って、我が家では、六反五畝の田圃だから、計算から行くと、六十五俵となるが、なかなか思うようにはいかず、五十二、三俵が、いいところだった。

当時は、私の身体も痩せていて、五十キロそこそこだったが、筋肉は隆々としていて、力も強く、米一俵を楽々と担いで運んだものだった。米一俵といえば、十五貫、六十キロ近くもあり、今の私が挑戦すれば、忽ちギックリ腰になるのはまちがいない。

こういう百姓の生活で、一番待ち遠しいのは、秋の村の鎮守のお祭りだった。文字通り豊年満作を祝い祈ることで、特に鉢巻きをして、重い神輿を担ぐのは、何とも言えない気分だった。

大学に通い始めてから、通学と耕作の二足のわらじを履くようになったが、次第に学業の方に重きを置くようになり、遂に作男を雇って一緒にやるようになった。

昭和二十七年、大学卒業と同時に、北海道の室蘭製鉄所に赴任することになり、遂に、私の米作り生活は終わりを告げた。

半世紀前の私の米作りと比較して、現在の機械化された農機具と、化学肥料と、農薬にめぐまれた農作業を、私は今毎日、犬の散歩で、田圃の縁を歩きながら、田植えから刈り入れまでの状況を眺めているが、まことに、今昔の感に堪えない。減反政策など、現今の農業に対して、農政改革者としての二宮尊徳がもし生きていたら、どのような提言をするであろうか。

私は、今、横浜に住んでいて、二宮尊徳の誕生地に近い郷里に、毎年、墓参に行っているが、当時の工場は、既に他人の手に渡り、私が耕していた田圃には、ほとんど民家が建ち並んで、昔の面影は全くない。

 

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