秋の日独り 

                 K 田 中  三 郎

             

「これも捨てるよ」見ると買ったままの品物。「あなたもそろそろ」と言われないのは家内も病気持ち、お互い病院について行ったり飯をつくったりだからか。老いました。昔を話すのも老いの証拠。息子の家族は遠いロンドン。近くにいながら、「うるさいな::また始まった」と言われるのがおち。幸い家内は外出中。人生の終焉に近い今、古い昔を並べ立てて、さっぱりしてもバチは当たるまい。

物心がついた頃は父はあの世。父親がいても昭和の初めから終戦後に至る生活の苦しい時代、二歳から中一までの四人の子供を勤めも知らない母がどうやって::と思うと胸が痛む。学校へは行きたかった。中・女学校だけは四人とも行かせてくれた。更に上を狙っていた兄が新兵で入隊、顔を腫らして外出で帰って来た。昼は鍛えられ、夜は古年兵の幹候受験の手伝いとか。「お前、将校になれよ」自分に言い聞かせるようにポツリと言った。

中学四年の時、校長室に呼ばれた。「どこを受験するか」。 休暇で母校を訪れた兵学校の先輩と兄の言葉が交錯する。「できれば海軍経理学校を::」そう答えて難しい約束をしてしまった。自信の程は五分五分。絶対に士官になるには、そこで目黒の高等無線講習所を受験した。希望で陸上と海上に分かれ、月になにがしかの手当が出て月謝はただ。卒業後は陸海軍少尉に任官して軍人に。私は海が好きだから海上とした。服装は海軍士官の服装から短剣を除いたものに近かった。皆恰好をつけて白手袋を着けたりした。一年半ばで休学して海軍経理学校受験、内申等は中学校から出してもらう。入校してから義兄に休学を退学としてもらう。母はこの上なく喜んでくれ、日曜の外出に当時有名な女優さんの家に連れて行ったりした。

終戦、帰郷、就職。日雇いのような仕事。駅で貨車からトラックへ積みおろしの仕事をしていたら、角帽をかぶった中学時代の仲間が黙って脇を通った。勤めながら六大学の中の某校を受験する。勤めがあるから通学はできない。たまに夜間部の教場をのぞく。夜間部は休講が多く、通学の一時間半は昼間の労働の体にこたえる。進学、卒業試験は勤めを休んで受ける。勿論先生の名も、講義の内容も知らない。役に立たぬと分かっているが、隣に座った学生から受験前にノートを見せてもらう。たまたま義兄が他の大学の先生をしていたので、その教材や著書を何となく目を通しておいた。卒業後ある必要があって、成績表をもらう。成績極めて不良、教務室に文句をつける。なんと同姓同名の赤の他人のもの。自分のを見たら思ったより優が多かった。まともに学校に行っていないので、特にその資格が必要な時以外は、気がとがめて履歴書に載せなかった。本音は、海軍経理学校の後に、そのような記載は欲しくなかった。同姓同名といえば、ずっと後私の一生に係わる大きな問題があったが、思い出したくもない。

人に誘われて、陸上自衛隊の歩兵の幹部候補生学校を受験する。周りは陸士関係の人が多かった。区隊委員に選ばれ真面目な学生生活を強いられた。卒業して帰郷したら、幹部候補生の副区隊長で二度と来るめえ(久留米にあった)と思った久留米にもどれとのお達し。母の病を理由に断る。それならと防衛大学指導教官とか。また断る。軍隊時代だったらどうなるだろうと思う。またしばらくして防衛研修所助手の話。行ってみたら助手から総務課勤務に振り替えられ、かつての中隊長がニヤニヤ迎えてくれた。人事やトップと副のお世話係。酒好きなトップのおやじを深夜自宅までお送りする。「あなたァ!!」玄関を開けた私が噛み付かれる。私は貴女の貴男じゃないのだが:: 出張。絶対に飲ませないで下さいよ::とこんこんと言われて、ある県で知事さんの招宴に臨む。おやじと相手の間に入り、これも仕事と受けて立つ。明日の予定についての打ち合わせの電話が入る。さっぱり分からず。みればおやじさんも同じ状態。その後どうなったか定かでないが、東京から電話で、大蔵との予算折衝でおやじさんは先方に任せてすぐ帰れとの連絡、すぐもどった気がする。

陸上幕僚監部へ転勤。昔でいう教育総監のカバン持ち。あの幹部候補生学校の検閲で九州に向かう。東京駅でドライバーを帰して席に腰を据えたら、「副官、カバン」と。カバン、カバン、しまった車の中だ。「飛行機で追いかけます!」。立ちかけたら発車。横浜で降りようとしたら、汗を拭き拭きカバン持ってドライバーが立っていた。どうやって? ただ感謝。

北海道の師団の検閲で演習場へ。北海道の演習場は広い。深夜「副官、○○へ連絡に行ってくれ」だ。星一つない野っ原に一人飛び出す。一時間も歩き回っただろうか、やっと到着して中に入ったら、出発した天幕だった。別の日、軽飛行機で北海道へ。仙台で給油。天候不良で先は飛行不能の由。これが一番嫌なことの一つだ。駅に走って駅長室で平身低頭、何とか特急券を手に入れる。今度は行き先との行動予定変更の調整、これが何カ所も続く。交通手段がセットしてあると::思い出すのも嫌だ。やっとすませて出されたお茶など飲もうとすると:「おい行くぞ」。 車の移動で一時間以内と予定したのに、混んだため五時間オーバーしたこともあった。

また、別の日、北海道から帰りの軽飛行機の中、「雲が切れませんので海へ出ます」。飛行隊長(パイロット兼務)の横顔蒼白。燃料のこともあるらしい。雲の切れ目なく、また陸地へ。穴を見つけて素早くもぐる。見ると両側は山だった。この仕事一年で終わり(くび?)。

しばらくして陸上幕僚長(陸上自衛隊のトップ)、副長の庶務室勤務。計画担当、早く言えば長官始め内部は勿論、他省庁や国会などのお偉方の陸上自衛隊との関係の調整。例えば陸上幕僚長の部隊視察の計画。一案を作って説明する。一部変更の指示、第二案作成、次、次、次、第十案の頃、第一案で行こう:フウーッ。ある日ある方面総監から電話。「お前何を考えとるのか!! 陸幕長がいきなり駐屯地に入られたら部隊がどんなに迷惑するか分からんのか!!」??私の計画には入っていなかったのに。通常こういうときは部隊を管轄する方面総監が立ち会いされる。今でも、怒っていたであろう総監の顔が目に浮かぶ。

自宅の町の国道、点滅信号を渡っていたら、トラックに七〜八米飛ばされた。チンピラに殴られ時間に遅れてあせっていたらしい。頭から出血、手術の話を親戚の医者が断ってくれたとのこと。自衛隊中央病院へ転院。長官から花束、統幕議長、方面総監のお見舞い。その都度周辺の大掃除。申し訳ない、下っ端幹部の私に::何回か目頭を押さえた。その後いくつも仕事が変わり、緊張した時など頭の中の線が切れたように白くなることが時々あったが、あの時のせいか?しかし年と共に当たり前のこととなった。

まだまだ。若い連中の代表で会社の部長とやり合って、翌日辞表をたたきつけたこと、「俺の言っていることが間違っているか!!」直接の上司二人を前に置いて、大声を出したことなどなど。思い出したら切りがない。自分が正しいと思ったら何も怖くなかった。真面目に失敗を続け、およそ出世などに縁のない私だったが、その生きざまに納得している。きびしい仕事に直面した時など、蛇腹の制服と短剣の昔を思い描き(陸上自衛官であったが:)、ウン!と胸を張ったものだった。:田中三郎兄のために:長官から頂いた色紙の中央に、私の最も好きな「誠実」の文字が大きく書かれている。

「海軍経理学校」、家庭の事情もあり、中学から上の学校への進学をあきらめていた私にとって、それは夢にも見た希望の学校であり、長い人生の中のごく短い期間であったとしても(少し痛かったが:)、最も強く心に残り、一番輝いていた時ではなかったろうか。

息子に言った。「あの世では必要ないので院号はいらないよ。叙位叙勲の話があったらお断りしなさい」。あの海軍経理学校生徒の誇りだけを持って行けば十分だ。

「おいどうした?」、一階二階を行ったり来たりしている家内に声をかける。「えゝ、一寸:」。いつものことだが、また何か仕舞い忘れたらしい。困ったものだ。そういう俺は何をしかけていたのだ:。 ボケが二人平等にやってきているようだ。二人で半人前の生活だが、できれば世話になった家内のボケの失敗をカバーできる程度に、私の方がほんの少し長生きできればと思っている。町の葬儀屋の友の会の相談役も引き受けた。葬儀の際の守り刀は短剣にしよう。

 

 寄稿文目次へ戻る                         次ページへ