海軍経理学校出身の経歴で!

                  G 堀之内   功

             

戦後の復興に村中が農業生産に熱狂していた。両親の汗みどろの労働の姿をみて、私も生きるために手伝った。しかし、裏では密かに上京し、「海軍経理学校生活後の勉強の補足もしたい」という野望があった。友人の動きも、余り知るよしもなかった。いろいろと煩悶している中に、青年師範学校で編入を許された。

学校は、我々の如き陸士、海兵、海経の生徒を七、八名編入させていた。家族一同とも離れることなく、戦後教育を築く教師となり、子弟養成を目標としていたことを「よし」として、喜んで勉強した。

一年半で、一応本科卒業、そして青年学校、新制中学校へ赴任させられた。田舎の社会では、当時まだ、教師は上の階級のような存在で尊敬されていた。しかし、私は、自分としての生き甲斐は、これではないと、日々、疑問を抱いていた。同期生の消息が伝わってくると、自分の存在に劣等意識を持った。

田舎教師の苦楽も、生涯の思い出として脳裏に刻み込むことはできたものの、更に東京で教師をやりながら、大学へ通いたいと欲深い希望を抱いた。しかし、全く身勝手で、両親は伯父が病死しての後を見るため、農作業の負担と、生活費の工面で大変な時だった。そのことを思いやることなく上京した。親不幸の自分は、今でも忘恩の徒として恥ずかしい思いをしている。この思いもあって、東京の教師として、師道一途に、知識、技術を高めていくことを決心した。

さて、私が述べたいのは、実は、管理職試験(教頭昇進試験)が昭和四十一年末に行われた時のことである。

第一次の筆記試験後の、第二次面接試験で、海軍経理学校出身だったということで、有利に事が進んでいったようである。

面接官(試験官)七人(都教育委員会の管理主事といわれる都全体の人事管理者で、昔で言えば視学官のような役人)の前に出て、私一人が、教育についての管理・指導を質問された。

面接試験は七、八分であった。最後の質問者は、「海軍経理学校の教訓を、学校の生活指導にどう生かしていきたいか?」であった。当時、平和論者の日教組は、戦争の名残になるようなこと、つまり、「気を付け!」、「休め!」という規律統制を全面的に忌避していた。私は、「これはしめた」と思わんばかり、海軍経理学校の訓育のあり方を述べ、国を背負って起つ子供を育成するための躾の大切さを訴えた。もちろん、学校を管理運営する以上、教師の指導も、当然のこととして厳しく指導監督する決意を述べた。この試験官は、大なる海軍経理学校贔屓であった。

昭和四十一年八月に発刊された本に、慶應義塾大学塾長小泉信三先生の著書「海軍主計大尉小泉信吉」(文芸春秋社刊)があった。試験官は、私の面接試験時、既にこの本を読んでいたと思われた。面接試験の質問時間残り少ない時に、敢えて、「海軍主計大尉小泉信吉」の感想を述べて、私と重ねて想像された気がした。私には、小泉先生のような偉大なる学識と家族構成の絆の姿など足元にも及ばない、平民の立場で恐れ多いのであるが、試験官が重ねてみて話されたことは、言うまでもなく海軍経理学校出身ということであったと思う。

小泉信吉主計大尉は、昭和十七年十月頃、南方に於いて壮烈な戦死をされた。慶應義塾大学から海軍経理学校第七期補習学生として入校された。その時の主任指導官は「観念の遊戯を喜ぶことなく、根底なき批判に耽けることを戒め、そして終わりに部下を信頼せしめるため、本校では躾教育を重視し、そのための「可からず教育」をする」と訓示され、指導教官は「スマートで、目先がきいて、几帳面、負けじ魂これぞ艦乗り」の格言で指導されたそうである。

試験官は海軍経理学校の指導方針に感慨を深くされ、現代の子供たちへの教育も、このような精神を通してくれる幹部教師であってほしいと願っていたのだと思う。

幸いにして、海軍経理学校出身ということと、「海軍主計大尉小泉信吉」の読書感によることとが、あるいは私を有利に詮衡して下さったものと思われる。比較的若い段階で教頭に任じられた。私は、誇りを抱き、更なる努力をして、国の教育振興に役立てたいと誓った次第であった。

また、学校の最高責任者(校長)として、十二年間の教育功績を認められた。平成十四年の秋には叙勲の光栄(勳五等瑞宝章)に浴し、生涯にとって感激一杯の時を得ることができた。支えて下さった諸々の方に感謝するとともに、海軍経理学校出身者という幸運な人間だったことも忘れてはならないと思う次第である。

 

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