三つの碑(いしぶみ)に寄せて

                 D 佐 藤  守 雄

 

私は、眇たる一臨床医ですから、自分史は、簡略に記します。

昭和三年早生まれ故、経理学校では若兵にして、体重五十キロ足らずの弱兵でもあり、特記事項はありません。戦後、山形高校に転入学し、東北大学医学部を卒業しました。母校の医局に入り、やがて派遣先の珪肺労災病院に赴任しました。

そこで、塵肺と当時蔓延していた肺結核について勉強しました。塵肺審査医も務め、随分論文も書きました。このため、後年、塵肺裁判の証人(学識経験者)として東京地裁、高裁にたびたび出席しています。

さて、標題に関連してですが、私は水戸の小学校を出ています。水戸には第二連隊がありました。また、学校長は、後に沖縄戦で亡くなられ、『ひめゆりの塔』の筆頭に名を刻まれている野田先生です。

戦後、東京裁判史観とある種の偏向イデオロギーにより、日本の近現代史が歪曲されてしまいました。戦中の「鬼畜米英」に代わって「鬼畜日本」と言わんばかりの自虐です。英霊に申し訳ありません。ここに敵将も絶賛した我が軍の勇戦敢闘の一例を紹介し、顕彰したいと思います。

「旅人よ」にはじまる玉砕した勇士たちに捧げる詩碑の第一は、ギリシャのテルモピレーの激戦地跡にあります。

紀元前四八〇年の対ペルシャ戦争で、スパルタ王レオニダスは、傭兵(傭兵とは今でいう外人部隊のこと。傭兵になると衣・食・住が保証されるので、当時普通のことでした)を含め、千名を率い、テルモピレーの天嶮で敵の大軍を迎え撃ち、全員玉砕しました。そこに立っている碑には、こう書かれています。

「旅人よ、行き給え、スパルタへ。そして伝えよ。この地において、われら千ものつわものどもは戦死せり。勇敢にも何十倍の敵に立ち向って祖国に殉じたことを」。

二つ目は、大東亜戦争ビルマのコヒマ激戦地にあるイギリス軍の碑です。

「旅人よ、貴下ら帰国の折には、われらこの地において、祖国の明日のために殉じたることを伝えよ」。

これら二つの碑は、同国人の名誉のために建てられたものですが、三つ目は、敵将により書かれた点が違います。太平洋激戦の地ペリリュー島に立っているものです。昭和五十七年五月に、青年神職南洋群島慰霊巡拝団により、遥々日本から運搬した材料を使用して、完成しています。この詩の原文は、現在アナポリス海軍兵学校に保存されています。故ニミッツ元帥の手になるもので、詩文に曰く、「この島を訪れるもろもろの国の旅人よ、あなた方が、日本の国を訪れることがあらば、伝えて欲しい。この島を守って死んだ日本軍守備隊の、素晴らしい勇気と、祖国を思うその心根を」。

ところで、ニミッツ元帥は、海軍兵学校生徒の頃から東郷元帥に憧れ、少尉候補生の時に目的を達し(東郷記念館に、一緒に撮った色褪せた写真が飾られています)、このことを生涯の思い出としていました。また、東郷元帥の国葬の折、海軍中佐巡洋艦の艦長として来日しています。このような方ですから、日本と戦うことを、好んでいなかったと思います。その故にこそ、日本軍将兵の勇戦奮闘を称賛したのだと考えられます。

一方ぺリリュー島で玉砕された方々は、私が幼少時代を過ごした、水戸に駐屯していた第二連隊中川大佐以下の将士です。六十年以上昔の私の幼年時代、水戸の街を兵隊さん達が隊伍を組んで行進しながら、第二連隊歌を唱和していたのを覚えています。支那事変が泥沼化してからは、そのような光景も見られなくなりました。当時の耳からの記憶を文字にすれば、幼少の頃で大昔?ですから、多少の誤りはあるでしょうが、以下の通りです。

「嗚呼(ああ)、我が水戸の二連隊、茨城健児のその名こそ、汝(な)は天地(あめつち)に輝かむ」   

十年を経ずしてその人達が、或いはその後輩たちが、連隊歌の精髄を発揮したのです。

以下、米太平洋艦隊司令長官C・W・ニミッツ大将(後元帥)著「太平洋海戦史」からの抜粋です。

○日本は縦深防御法を採用していた。主抵抗線は艦砲の破壊力を避けるため、内方に構築されていた。この線は地形の不規則なあらゆる利点を利用した陣地網によって、支援されるようになっており、人知の考え及ぶ限りのあらゆる器材によって、難攻不落なものとして構築されていた。そこではもはや、無益なバンザイ突撃は行うべきではないとされ、守備兵の一人一人が、その生命を有効に生かすことになっていた。

○日本軍守備隊は、五百個をこえる人工、または自然の洞窟の迷路に立て籠もったのであるが、その大部分は内部が交通できるようになっていて、鉄扉を持ったものまであり、全部が草木によって巧みに偽装されるか、隠蔽されていた。 

○新しい日本軍の防御技術に対する対抗策として、バズーカ砲、爆破用火薬、及び戦車に搭載した長距離火炎放射機が準備された。しかし、日本軍をペリリュー島から一掃することは一向に進捗せず、二十年二月まで高価な作戦の続行を要した。(筆者註 米軍上陸は十九年九月十五日)

○ペリリュー島の複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他の如何なる上陸作戦にも見られなかった、最高の戦闘損害比率(約四十%)を出した。米軍はフィリッピン攻略のため、この島の飛行場を使用したが、この利便が、果たして一万名に及ぶ米軍人の死傷者の犠牲と相殺したであろうか。(筆者註 日本軍守備隊も約一万名いましたが、この激戦にも拘らず、日本軍の生き残りは三十四名おりました。)

 ニミッツ元帥は、戦後荒廃した日露戦争の記念艦三笠の復元や、戦災で焼失した東郷神社の再建に、率先して物心両面に亘る援助を惜しみませんでした。元帥は昭和四十一年に亡くなりましたが、その生誕地にニミッツ記念センターが開設されることになった折、東郷元帥ゆかりの人々が日本庭園を贈り、故人の芳情に報いました。

 

寄稿文目次へ戻る                         次ページへ