一週間遅れの帰省

                 D 笹 谷  道 男

             

終戦になり生徒は即時帰省となった時、外地となった樺太、沖縄、朝鮮、台湾の出身者で帰省先の無い者は、暫く学校で面倒を見てくれる、ということになった。樺太出身の私は、石川県七尾市に叔父の家があり、当然そこに行くことになるのだが、行くのは何時でもできる、この先どんなことになって行くのか、一寸冒険してみたい気持ちになり、学校に残ることにした。少年時代の学校帰りの道草を食う気分だ。後で沖縄出身の一号生徒が一人残られたと聞いたが、その後のことは知らない。

今でも鮮烈に思い出す光景がある。

皆が慌ただしく帰って行った日の翌日の夜だと思うのだが、士官以上が校庭に集合して御真影、天皇旗の焼却式が行われた。時刻は、はっきり覚えていないが、多分八時頃だったと思う。私は二階の廊下からその様子を見ていた。荘重なラッパの音が響く中、御真影、天皇旗が次々と赤い炎をあげて燃えて行く。空には大きな月が皓皓とこの光景を照らしていた。あの御真影は、空襲警報発令の都度、私が背負って防空壕まで避難させたものだ。

二号一六分隊。居室は教官室の真上の二階にあった。或る日、幸村伍長から御真影を避難させる班員を命ぜられた。他に三人位いたように思うが全然思い出せない。伍長は、何で一六分隊がこんな役目を担うのかと、自問しておられたが、御真影が置かれている教官室に一番近かったからだろう。

御真影は帆布製の背嚢のようなケースに入れて背負うようになっていた。教官室の入口近くの棚に安置してあった。最初の空襲警報の時、瀧明分隊監事、幸村伍長以下班員一同防空壕に入った。私は御真影の前では正座でもさせられるのかと、内心ビビっていた。脚絆巻きで正座する時の苦痛は、品川校舎で経験していたからだ。壕内の適当な場所に着くと、分隊監事はドカっと胡座をかいて座られた。一同それに倣うようにして座って、ヤレヤレと思ったのは私だけか? 御真影は壕の壁に立て掛けておいた。

或る日、自活して行くための農場を見学することになった。下士官に連れられて農場に向かった。既に運動場程の広い開墾地が出来上がっており、なおも兵隊さんが抜根機で開墾を続けていた。松の木を切り倒した後、根の上に丸太を三叉に組んで立て、頂上につけた滑車を通したワイヤーを根に巻きつけ、ヤンマーのエンジンの付いたウインチで、巻き上げて松の根を引き抜くのだ。エンジンがうなると松の根が土を付けたまま、起き上がるように地上に姿を現す。校長の送迎に使われていたダットサンの燃料の松根油は、このようにして掘り出したものから造られていたのだった。作業自体は見ていても飽きなかったが、学校が暫く面倒をみるということは、このような農作業をしながらの自活かと、改めて思い知らされた。農作業を知らない私には、とてもできそうも無いと思った。  

何もすることが無いということが、こんなに辛いことかと、初めて経験した。屁をする暇も無かった三号の時は勿論、二号になって多少要領が分かって余裕を持てても、結構追いまくられていた。それが何もしなくてよい、何してよいかも分からない状況になったのだ。巡検みたいに一号館、二号館を見て回った。ガランとした空疎な空間があるだけだった。

一号館の講堂には、各分隊から出された海軍諸例則や海軍内規等の図書類が、山のように積まれていた。個人の辞書なども多かった。私が品川入校後神田の本屋で買った、店主が海軍さんならばとわざわざ店の奥から捜し出してくれた、英和辞典もその中にあった筈だ。

食堂で砂糖を配給するという。神戸の空襲で倉庫に入っていた砂糖が焼け、その処分を経理学校に任されたとのこと。白砂糖が半分炭化して、しかも水をかぶっているので、黒い泥漿のようになっていた。食堂に貰いに行ったら、若い下士官に「もう負けたんだから生徒風を吹かすな」みたいなことを言われた。それでも黒い砂糖液を小瓶に入れてくれた。何か私の態度がデカかったのか、当惑した気持ちは覚えているが、何でそう言われたのか心当たりは無い。敗戦の現実をだんだんと実感させられ、面白半分の残留気分はすっかり無くなり、一刻も早く叔父の所へ行こうという気になって来た。 

七尾市の叔父の所に行く旨瀧明分隊監事に申告したら、吾郷教官の所へ連れて行かれた。教官に「おー、帰るか。折角海経に入ったのになあ」としんみり言われ、思わずホロリとした。元来体が硬くて体操が嫌いな私にとって、海軍体操でしごかれた吾郷教官は、最も苦手に思っていた教官だっただけに、却って応えたのだろう。そこへ木村教官も来られ、それでは垂水駅まで車で送ってやろうということになった。その話を横で聞いていた予備学生出身の主計中尉さんが、「それなら自分も一緒に乗せて下さい」と言ったら、吾郷教官が「生徒が乗る車にお前が乗るとは何事か」と偉い見幕で叱り付けた。一号生徒の歴史の教官で、問題発言が多く一号生徒からも問題視されていた人だけに、何かあったのかも知れない。

夕刻、木村教官のダットサンで垂水駅まで送って頂いた。車中、松根油のお蔭で車を動かせられ、紺野校長の送迎をされていたとか、芸は身を助けるでタクシーの運転手にもなれるなあと話されていた。そういえば三号五分隊の時、杉山教官の次に木村教官が分隊監事になられた頃、垂水校舎の校庭でダットサンの運転練習中の車に、同乗させられたことを思い出した。

垂水から大阪へ、大阪から米原、金澤、七尾へと殺人的過密列車を乗り継いで、七尾駅に着いたのは八月二十七日の午後だった。

 

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