沈黙の海軍

                  C 石  原   実

 

今年の夏は例年になく暑かった。ひとり黙然と、私はその酷暑に堪えた。

 毎年、八月六日から十五日まで、私はとりわけ寡黙になる。言うまでもなく、六日は広島原爆の日、十五日は太平洋戦争終焉の日である。その間は私たちにとって、もっとも重い十日間だった。私たちというのは、私と私の妻とである。七年前の秋その妻を喪って、私はこの十日間の重みを独りで支えなければならない。

 戦艦大和乗り組みの主計科士官たる夢を失った日から、私は寡黙の人となった。故郷の伊勢に帰ってからも、私はひどい頭痛(海経で終戦直前に打ったルンバールとかいう、畳針ほどの腰椎注射の後遺症か)に悩まされながら、私はひたすら沈黙を守った。当時内地で戦争の傷痕を最も痛切に残している街、広島へ行こうと思い立ったのはその頃である。

その広島で、私は七年間の学生生活を送り迎えた。広島高師と広島文理大とである。しかも、私の選んだ学部は文学部ドイツ語科と日本文学科という、まるで時勢に逆行するものであった。同じ敗戦国ドイツの文学と哲学が、私の残ったわずかな向学心を支えたのだろう。ゲーテ、シラーの文学や、カント、ヘーゲルの哲学が私を刺激した。だが、それら厖大で饒舌な知的体系は、いささか私を辟易させた。結局、私の卒論はリルケと萩原朔太郎。ともに孤高寡黙の詩人である。

 広島の人々も寡黙であった。三十五年間は草も生えぬといわれた地である。そこで、私は被爆者の一人を妻に迎えた。彼女は被爆当時は女学生。学徒動員先の工場(爆心地より一・八キロ)で。大きな旋盤の陰で辛うじて死を免れた。火傷、外傷こそないものの、彼女は顕著な放射能被爆症状(紫斑、脱毛、白血球異常など)からようやく恢復したばかりであった。彼女の兄も慶応在学中の飛行予備学生として、すでに鹿屋から特攻出撃し、還らぬ人となっていた。

 以後、私と妻との半世紀に亘る重い戦後が始まった。ただ一つ、長男の誕生が私たちのレーゾン・デートル(存在理由)であった。横浜に赴任して七年目の五月である。「ダンシタンジョウ・ゴタイマンゾク」――電報の頼信紙に一字一字記しながら、不覚にも私は涙を流し続けた。

 今年の明治節十一月三日で、私は満七十七歳、喜寿の年である。喜寿とはいえ、私に頌歌はない。富士の見える丘の上の自宅の庭に三坪ほどの温室を建て、洋蘭(カトレア銘品百株ほど)を育てている。私のたった一つの贅沢である。しかし、植物はむろんのこと私に何も語らない。

 海経同期の諸兄と語り合いたいことが山ほどあって、しかも海のように深い。昭和十五年、皇紀二千六百年を祝して伊勢湾に集結した連合艦隊主力。あの鋼鉄の浮き城群の圧倒的な壮観に、砂に立つ少年は熱く脊髄を貫く感動を覚えた。その感動が虚妄であったとは今も思えない。

 そう、軍縮条約以来、日本海軍のモットーは「ビー サイレント」であった。沈黙を守り続ける限り、「サイレント ネービー」は世界列強の畏敬の的であった。

 諸兄よ、私の沈黙を諒とせよ。

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