人生航路

B 山 崎  四 郎

 

私の戦後史など、取り立ててご披露するものは、何一つとしてございませんが、振り返って見ますと、ただがむしゃらに生きてきたとの思いひとしおです。平坦ではなく、山あり谷ありでしたが、二、三の思い出を綴らせていただきます。

私の経歴は、四国時代(終戦後から二十二年春)と九州時代(二十二年春から四十八年暮れ)と青森時代(四十九年から平成元年の十五年間)と現在の大野城時代と四ブロックに大別されます。

四国時代、終戦からの一年半は、家族の疎開先(愛媛県河野村在)の醤油屋さんの納屋を借りて雨露を凌いでいました。今は亡き母から、「海外の領土もすっかり失い、日本がこれからどれだけ辛い月日を過ごさねばならぬか、想像もつかない。兎に角固いところへ就職しなさい」とキツク言われました。大正時代約十年間、父が浪人生活を送り、苦しい中から五人の子育てをした母からの諭しは、身にしみました。松山高校への転入学の通知を破って地元の銀行に就職したことを鮮明に覚えております。

長兄の行方が分からなかったのですが、やがて久留米のBS(ブリジストン)にいることが分かり、一家が合流することになりました。何しろ十九歳の私の細腕では、両親、姉、弟、甥の大所帯など到底養えるものではなく、専ら母の才覚でタケノコ生活でやり繰りしていましたが、段々それも心細くなり、九州への合流は渡りに船でした。

長兄は、終戦時海軍主計大尉で、石橋幹一郎氏とのご縁で日本タイヤに入社していました。兄のツテで関連子会社の旭食品に押しかけ入社しました。今思いますと、長兄は当時二十代前半の歳でしたから大家族の受け入れは大変な負担でした。旭食品がやがて九州製糖へと脱皮するのですが、経営陣の主導権争いから、分離独立して生まれたのが日新製糖(東京)で、リーダーは森永為貴氏でした。私は兄の一言で九州へ戻り、ないないづくしの中で再建に努力して参りました。一貫して原料係を担当し、主に海外からの輸入業務に携わり、税関には仲良く出入りしておりました。

九州時代の印象で残っていることの一つは、粗糖を生産して、日本に持ってくるプランを三井物産と提携して実現しようとしたことです。プランテーション付工場買収調査団の一員に参加させられ、前後二回八カ月に亘って各地を調査して回りました。ブラジルの将来性に魅せられて、進出が決まったら第一番に渡り、骨を埋めるつもりでしたが、当時(昭和三十五〜三十七年)、外貨事情が悪く約一億円の送金のメドが立たず、結局沙汰止みになったのは本当に残念でした。

昭和三十八年、突然砂糖の外貨割当制度が廃止され、輸入が自由化されました。当時、司直の手が政界首脳部にまで及ぶのを感知した河野農林大臣が自由化に踏み切ったと噂されました。食糧庁の砂糖課長が伊豆の温泉宿で自殺したのも、この前後だったと記憶しますが、この課長さんは、ほんの数日前、博多の「やまね」という料亭で徹夜マージャンをして別れたばかりでしたが、自殺されるような気配は全くありませんでした。何とも後味の悪い思いでした。

粗糖の自由化は過当競争の中で、それまで外貨制度の恩典に浴して、甘い汁を吸っていた製糖業界は軒並み赤字に転落してしまいました。九糖も関連子会社の整理を強行したため、全糖労協を向こうに回し、大争議に発展しました(大進製糖事件として業界では有名)。この会社に出向していた先輩が心労でダウン。急遽、私がピンチヒッターとして会社代表となり、労使交渉の矢面に立ち、結局七十四名の全従業員の解雇と資産処分を四年でなし遂げましたが、これは大変な勉強になりました。団交を何十回やったのか覚えておりません。ピケ中の組合を警察官にごぼう抜きしてもらったり、様々な妨害を一つずつ突破していきました。

博多港に初めて一万トン級の外国船を接岸、直接荷揚げしたのも思い出です。

沖仲仕のボス阿波五郎(故人)という豪傑がおられました。この方から色々教えられましたが、その一つに「人間、一旦口に出して約束したことは決して無くならない」という教えでした。どんなきっかけで話されたのか忘れましたが、人間的に尊敬できる方でした。

ブラジルへの進出は果たせませんでしたが、南西諸島(喜界島)に生和(しょうわ)糖業という製糖会社が生まれ、立派に成果を挙げており、ひそかに誇りに思っております。この島への企業進出の尖兵として、約一年間滞在して悪戦苦闘したのも、懐かしい思い出です。

青森時代に経験したことは色々ありましたが、「ホテルニュークドー」の建設に関わる傷害事件が印象として一番残っております。これは、契約した金額ではまともに納入できない第二次オイルショックに遭遇した業者が、手抜き工事の結果、多数の一酸化ガス中毒の障害者を発生した事件でした。死人が出なかったのは、幸運でした。適切な要望を認めることが結局、こちらにも得することを学びました。

一九八九年青森から福岡に戻って、住まいを手配するに当たり、福岡市内に入手していた土地を手放し、大野城市の現在地に土地百坪に三十五坪の平屋を立てることができたのは、狂乱物価のピークの中で、幸運であったと考えております。

書き残した豊田でのクロレラのことや、福岡でのロイヤルのことは別の機会に譲ります。

青森について一言します。自然は美しく探求するのに尽くせぬ思いがありますが、冬の降雪期は大変なものです。まさに半年雪との戦いです。住んでみなければ想像できません。でも片道二十分でゲレンデに着き、スキーが楽しめる良さは応えられません。北国の海の幸、山の幸にも恵まれていますが、冬の野菜は質、量ともに乏しいものです。一方、梅雨時期じとじととしたうっとうしさは殆どありません。ものごとには一長一短ありということでしょうか。

 

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