土木技師として

                 B 千  葉   公

 

幾ばくかの紆余曲折の後、仙台工専の土木科を卒業したのが昭和二十五年三月でした。この土木科時代、今は鶴見総持寺の貫主をしておられる板橋興宗さんと一年間だけ机を並べておりました。コレス(海兵・舞鶴)とあって語り合うことが多かったのですが、板橋さんから親戚が下宿人を置きたいと言っているがどうだという話があり、寮を出て卒業までの二年半の間お世話になりました。

卒業して日本鋪道鰍ノ入り、山形出張所に配属されましたが、庄内地方で受注した土木工事を、君は学校を出ているのだから大丈夫だろうと任され、昭和二十五年八月から翌年三月まで従事しました。驟雨の多い庄内地方で秋の農繁期の人手不足の中、年末までに一応の盛土工事を終えましたが、一緒に受注した地元業者は、全然動く気配がありません。どうするんだろうと思っておりましたら、一月から二月の降雪期になって馬橇を使い始めたのです。農閑期とあって賃金が安く、人と馬に馬橇まで付けて一日五百円でした。秋には人だけで二百五十円だったのでしたが。工期が三月一杯でしたので、私は未だ定まらない天候の中で土羽を打ち、砂利を敷いたのでしたが、地元業者は放ったらかしです。四月に入ると連日の好天、強粘土の庄内の土はトラックが入ってもびくともしない状態となり、楽々と仕事を進めておりました。

土木工事は自然を相手に行うもの、自然のリズムを無視して工事を進めてはいけないと痛感しました。現在、我が国の会計制度は四月から三月までの単年度主義が大半となっておりますが、このため春から夏にかけての好季節が予算配分や設計に当てられ、秋から冬にかけての寒冷期に現場が追い込みとなる現象が続いております。せめて一月に始まって十二月に終わる会計年度に改めれば、我が国の土木工事はもう少しコストを下げ、質の向上を図ることができるのではないでしょうか。

二年目の昭和二十六年には、北海道の襟裳岬で米軍のレーダー基地建設工事に従事し、測量を担当しました。電線を引けなかったので、半年間ランプ生活を続けました。折柄朝鮮戦争の最中でしたが、四日遅れの新聞で、何日か前にソ連機が襟裳岬に飛来したという記事を目にする状態でした。秋になって、宿舎から五十米程の所に熊の足跡が見つかり、それまで毎晩のように三粁程離れた海岸地区の民家に遊びに出かけていた連中の足がピタッと止まりました。そのうちに現場内の沢の一つで熊を射止めた猟師が挨拶代わりだと言って、肉を二十瓩程持って来てくれました。脂ぎった肉で、怖じ気を振るう人の多かった中で、若い私は十二分に堪能したものでした。

直接担当した工事現場の最後は、東名高速道路の神奈川県と静岡県の県境に跨る工区でした。この地区は地形が峻険なため路線選定に手間取って、他の工区より遅れてしまい、東名、名神がこの一箇所だけで分断された形となってしまっておりました。高速道路工事は、通常土木工事開始から舗装工事完了まで二年半かかっておりましたが、切土最高七十五米、盛土最高四十五米、酒匂川橋の橋脚高四十五米、そしてトンネルと橋梁とが交互に何箇所も続くと云う難しいこの工事を二年で仕上げたのでした。そのため土工業者への発注は小間切れにされましたし、私たち舗装業者も全線中一番短いこの工区に最大の勢力を集中したのでした。その前同じ東名の一番東京寄りの工区を担当していた時に内命を受け、一日遅れれば道路公団の損失は百万円になると聞かされておりましたので、一日といわず一時間でも縮めるべく周到な準備を整えておりました。昭和四十四年五月二十六日の開通式は名神、東名全線五百三十五粁の開通となった日でしたが、その二、三日後には定期便を始め大型車がどんどん通るようになり、それまでは乗用車が主体だったので、観光道路を造っているのかと少々割り切れない思いでいたものが、これでやっと本格的な産業道路になったと満足できました。

舗装工事に使用するアスファルト合材は、工事を行う都度プラントを持ち込んで製造しておりましたが、プラントが大型化するのに伴い固定されたプラントから販売が行われるようになるのが世界的な傾向であり、日本鋪道でもその分野への進出を検討しておりましたが、舗装のライバルを増やすことになるという反対論も根強く、踏み出しきれないでおりました。昭和四十年代に入ると、ぼつぼつこの分野への進出を始める企業も現れ、これ以上の猶予はできない状況となりました。折しも、二二期の南さんがブルドーザー工事の専務を退任されたのを知り、お迎えして準備を始めたのが昭和四十三年のことでした。昭和四十五年三月に合材事業部を作り、この分野へ本格的に乗り出しましたが、この時の体制は、南さんが部長で私が課長でした。始めて三年で先発企業を追い越して、この分野でもトップの座に就くことができました。南さんには公私にわたるご指導を頂いて、海軍経理学校時代学びきれなかったところを幾分なりとも補うことができましたことを大変有り難く思っております。

先年北海道旅行をした時には、七年間室蘭の道路造りに汗を流した仲間が集まってくれましたし、二年前には広島県三次市のテストコースに、三十数年前このコースの完成に苦心した発注者、土工業者、舗装業者が集って昔を偲びました。

直接現場で汗を流す人々との触れ合い、目に見える完工物、土木技師としての生活には楽しい思い出が一杯詰まっております。

 

 

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