奨学金五百円の話題にまつわる思い出

                 @ 岩  田   章

 

昨年秋の長野総会二日目、草津温泉大阪屋での懇親会の席上、三田義雄君が口火を切り、経理学校生徒時代、毎月数円の手当が支給されていたと思うが、何円だったのか、また、終戦時五百円もらったという話があるが、いつどこでもらったのかという事が話題になった。

私の記憶では、生徒時代手当はあったが、何円かは思い出せない。また、終戦時五百円は確かにもらったが、いつどこでとなるとさっぱり分からない。

後日佐藤順一君の調査により、昭和二十年九月十日付紺野校長の「生徒一般へ達」という文書により、十月一日付の差免時、奨学金として、五百円支給されたことが明確になった。また、今年四月の三渓園観桜会で、石原実君に「帰省後、津市の県立津高女へ一緒に貰いに行ったではないか。思い出さないのか」と言われて、そうだったのかという次第。

そこで、私にとってその五百円が、いかに貴重なものであったかを物語ることにする。

最初に、私の環境についてちょっと触れると、父は、鉄道大学と言われた高等部機械科の一期生のトップで、大臣賞のウオルサムの銀時計を貰い出世頭であった。母は、師範学校を出て小学校の先生をしていた。そんな幸せな家庭に私は生まれた。ところが、幼時期に、両親共に肺結核でたおれ、姉と共に伯父の家に預けられた。父は私の小学校一年生の夏亡くなり、母は小康を得たので、我が家に戻され、姉と私は病弱の母によって育てられた。

そんな中で、私の中学低学年の頃には、大学にやってあげるから勉強しなさいと言われていたが、高学年になると、お金が無くなったからもう大学までは無理、専門学校よと言い含められた。

経理学校への入学は、第一義的には、国家存亡のとき、お国のために一命を捧げんと赴いたことは確かだが、学資がなくとも進学できるという魅力があった。そんな中で、突如終戦、眼前が闇となり、すべてが終わったと思ったのは当然であろう。三重県亀山の郷で、心配をしている母に、一度顔だけ見せて終わろうという思いだけで帰省の途についた。

上陸した敵兵に捕まったら、この短剣で刺し違えるのだと、礼装用の短剣を抜いて眺める一幕もあった。母に顔を見せた瞬間、喜んで泣く母の姿を見て、終わろうという気持ちに迷いが生じた。

それから一カ月程度は、二階の一室にこもり、精神的に不安定な日々が続いたが、その後は生徒館生活が懐かしくなったり、二度とありえない生徒館生活を夢見たりしたが、やがて終戦のショックも徐々に和らいで行った。

ここで五百円の話になるが、気持ちが安定して来た頃、五百円を頂いたことになる。

姉は津市の連隊区司令部に勤め、生活を支えていたが、終戦事務所と名前を変えた時、退職金として千円をもらった。私の五百円と姉の千円が、その後の生活の元手となるのである。

帰省時の井上隊監事の訓示で「屯田兵となり再起の時を待て」と言われた言葉が思い出されるし、千五百円が手元にある。

そこで、百姓をやろうと決心し、やる気を起こさせたのである。千五百円で、一反十八歩の畑地を購入し、他に田畑を少々借用した。米は供出し、残りは自家用であったが、野菜は余った。購入した畑地の一部は茶畑だったので、五月には手もみの茶を作って自家用とし、残りは刈り取って茶業者に売った。我が家の敷地内では、産卵用の鶏を三十羽位飼い、野菜も作った。柿、夏みかんの木もあり、シーズンには食べきれなかった。穫れた米からは、自家用の酒も作ったが、絞りたての芳香は忘れられない。余った農産物は、京都方面からの買い出し部隊に取り巻かれ、処分に困ることはなかった。姉の勤めからの現金収入もあり、生活も安定した。

一方、敗残兵も、学校に行けるということになり、色々考えた末、百姓をしながら通える学校はとなると、唯一、三重農専であった。丁度その時、三重農専に農産製造科という農芸化学を教える学科が誕生し、百姓の延長線と考え、学費の見通しもあったので、それなら行こうと進学を決心した。百姓と学業、それでも若者には余裕があったのか、町おこしの文化活動にも手を出した。またたく間に三年が経ち、卒業後の進路をどうするかを考えるようになっていた。

これからの日本は、輸出立国だと思い、農芸化学を生かせる輸出会社はどこかと考えた末、味の素(株)への就職を希望し、希望通り就職が決まった。

そこで問題になったのが田畑であった。

農業を止めると、農地は手放さねばならない。借りた土地は返すとして、求めた一反十八歩の畑地は売却せねばならない。

千五百円で求めた畑地は、倍の三千円に値上がりしていた。ところがそれを買い取る百姓には、現金が無く、米で支払うということになり、致し方なく米一俵と交換、それも二年かけて分割して受け取ってゆく、という始末になった。この一反十八歩の畑と米一俵の交換文書は、今も残っている。そして、一俵の米は、家族の腹に収まった。

終戦時頂いた五百円は、終戦で放心した私に、やる気を起こさせ、戦後の苦しい時に、生活を支えてくれ、また、本来の奨学金として、私の学費を生んでくれた。そして、私を就職させたところで、米一俵となって、役目を終え、消えていったのである。

ああ五百円よ、有り難う。感謝する。

 

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