海経よ有り難う          

 Q 青  木   昭                                  光陰矢の如し。海軍経理学校、品川の門を潜って、早いもので六十年経過し、思い出も今や風化しつつある。海経の生活は私の青春の原点であった。その過酷ともいえる生活体験は、私の人生にとって大きなプラスとなった。逆境を跳ね返す強靱な体力と精神力を培うことができた。                

配属されたのは十八分隊(後日「鬼の十一分隊」の対比で「佛の十八分隊」と呼ばれた)。田中登伍長をはじめとする敬愛する一号生徒達の指導の下、生徒館での生活が始まった。ご多分に漏れず、よく殴られ鍛えられた。殴られることにより一人前の海軍生徒になるという予備知識があったので、痛みも苦ではなかった。一日一日海軍生徒らしくなってくる気がした。事実、垂水で後輩達が入校し、二号生徒になったとき、たった半年間の鍛錬の成果を身をもって実感した。                   訓育は、短艇・体操・手旗信号・柔道・陸戦となんとかこなすことができた。私にとって一番の問題は駆け足であった。海軍でこんなに走らされるとは夢想だにしなかった。校内はすべて駆け足。難敵は品川駅一周の早朝駆け足。最後一程度の早駆けで何時も遅れ鉄拳制裁。口の中が切れ朝食の味噌汁が飲めなかった記憶が鮮明に残る。お陰で垂水では全く苦ではなくなり、戦後大学での運動部生活も、大いに楽しみ走りまわることができた。   勉学は、東京帝大牧野教授の法学通論をはじめ、錚々たる大学教授による高度な講義を受けることができた。入校前勤労動員に明け暮れ、中学五年になってからは、まともな授業を受けることができなかった身にとっては、まさに感激であった。終戦直前まで、英語教育も含め授業は継続された。戦時中にこのような千載一遇の機会を持つことができた海経生徒は幸せ者といえる。   辛いながら思い出の多い海経生活も一年弱にて終幕。終戦勅語はよく聞きとれなかったが、自刃することもなく茫然として復員。貧しいながら充実した大学生活を送り社会に出た。商社にて念願の貿易業務に従事。結婚し、ぼつぼつ海外勤務というところで、思いもかけない事件が起こった。               それは昭和三十四年秋のことである。ある日突然、法務局から一片の葉書が舞い込んで来た。「貴殿の日本国籍は戸籍法に悖るもの故抹消する。異議あれば直ちに出頭され度し」という驚くべき通告であった。早速出頭抗議したが、「出生届けが法に定められた出生後二週間以内でなく遅れて提出されており無効である。日本国籍が必要なら帰化手続きを取れば回復可能である」と、法律を楯にとった官僚的なすげない回答しか得られなかった。   そもそもの原因は、私が北米・桑港で生まれたことにある。帰国は昭和十二年八月。九月に東京の区立小学校三年二学期に編入。日本国籍は昭和十四年五月四日受け付け取得されている。当時の北米在留邦人は日本国籍の取得手続きは帰国後が慣習であった。在留邦人子弟の永久帰国は稀で、戸籍法の認識は無かった時代であった。届け出を受け付けた区役所にしても前例少なく、安易に受理したものと想像されるが、明らかに役所側のミスである。  何れにせよ、日本人として戦前・戦中・戦後と生き抜いてきた身としては、自己否定につながった一大事であった。選択肢は、@帰化手続き、A米国市民権回復、B無国籍選択となるが、何れも私としては到底納得のできないものであった。困り果てた挙句、弁護士と相談したところ、「本件は裁判にかければ勝訴間違いない。相当な国家賠償も期待できる。珍しい事例だから弁護料無しで協力する。直ちに提訴に踏み切ろう」と積極的であった。裁判となれば、解決まで長期化を覚悟せねばならない。その間、戸籍に問題があるとなると旅券の取得ができない。となると、念願の海外勤務はおろか海外出張も断念せねばならなくなる。このような事態をなんとしてでも回避し、円満解決を図るべく、当局と交渉を重ねた。切り札は、戦争中海軍に籍を置いた事実であった。当局も最終的に問題の大きさに気付き、「国籍抹消」を撤回、戸籍に但し書きを加えることで合意に至った。その結果、私の戸籍に、「責に帰することのできない事由のため期間経過」という一行が挿入された。         

今思い起こせば笑い話だが、当時としては私だけの問題ではなく、子供の戸籍にも影響のある真剣な問題であった。それにしても、もし私が海経に採用されていなかったなら、今の私は無国籍者である可能性があった。「海軍経理学校よ本当に有り難う」である。

 

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