いかにして農芸化学者になったか

ー高校生の君たちにー

                  P 山  本   出

 

私は、妹と孫がイスラエルに住んでいた関係でユダヤ人との付き合いがあります。ユダヤ人はタルムードという本をいつも勉強しています。道徳、宗教、伝統をまとめたもので、そのはしばしにユダヤ人の知恵が語られています。その一つを紹介しましょう。「賢い人の前に座る人間は三つに分けられる。スポンジ型―何でも吸収する。トンネル型―右の耳から左の耳へ抜けるだけ。フルイ型―大切なものとそうでないものを選別する。」これは、「先生の話を聞く生徒は三つに分けられる」としても良いでしょう。さて、諸君はどれになりますか。

私は、昭和三年(一九二八)の生まれです。昭和二十年(一九四五)までは戦争に次ぐ戦争の時代でした。人は時代の子といいますが、私もその時代の影響を強く受け、十六歳で日本海軍のオフィサー養成学校の海軍経理学校に入学、今でいう後方支援、ロジスティックスの勉強をしました。そうでなければ、日夜工場で働き、兵隊になるしかない否応なしの選択でした。しかし、空襲に明け暮れる時代、軍人としての基礎教育・体育はもとより、東大、一橋などの教授から哲学、法律学、経済学、会計学、また食品栄養学、資材の製造学などを学び、さらに物理、化学、数学、語学などの基礎学、はては行儀作法まで学び、わずか一年足らずの在学でしたが、十年もいたような経験をしました。分を刻む一日の反省として、「誠に反する、言行に恥じる、気力に欠ける、努力せず残念、不精を続ける、ということはなかったか」(五省)を唱えたこと、「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂、これぞ艦乗り」といったモットーは、その後の人生で折に触れて想起し、何らかの影響をもたらしました。

十七歳のとき戦争は終わりました。軍から放り出され、故郷の渋谷に戻ると、皇居のあたりまで、国会議事堂を除いて、全くの焼け野原、その中に立って呆然としていました。

高校生諸君!諸君はこれからの進路を選ぶ時期になっていますが、ほぼ同じ年齢だった当時の私は、こういう状況下で将来の選択を迫られました。

何かをしなければならないという思いはあっても、留守宅は三度米軍の空襲で破壊され、他人の家に寄宿し、食料も燃料も所持金も乏しく、八方塞がりでした。その折、自分の心に問いかけました。何をしたら、自分のためであると共に世の中のためにもなるか、そういう仕事は何か、と。その頃皆が一番痛切に感じていたことは空腹でした。食物に関係する仕事をやれば、自分にも良し、人様にも良し、これでいこうと思い至りました。海軍の学校は経理学校といい、そのモットーは経国理財、つまり資源を有効に活用して国を経営するというもので、この精神にも影響を受けました。

人によって思いは様々でした。金があれば高い食べ物も手に入りました。そこで手っ取り早く、闇商売、闇金融に走った人もいます。政治家や政府や大企業のトップを目指して、まずは良い教育を受けようと勉強した人もいます。

高校生諸君!今、君達の心を過ぎる思いは何でしょう。白紙の心に何から書き込んでいきますか。

無限の可能性があるという点で、年寄は君達を羨望の目で見ます。年寄はすでに沢山書き込まれた紙に余白を探して書き込もうとするようなものです。

さて、私は東大の教養学部の前身である第一高等学校の医学・農学コースを受験しました。口頭試問で、君はどういう志望でここを受験したかと聞かれた時、空気と水と石炭を変えて食べ物にする研究をしたいと返答したら、先生方が拍手して、君その意気でやりたまえ、ということであっさり合格してしまいました。さて、第一高等学校から東大農学部農芸化学科へ進みました。この学科は土壌学、肥料学、栄養学、畜産科学、農産製造学、微生物学、生物化学、有機化学など食料の生産から、その利用に至るすべての基礎学をカバーしていました。今は名称も変わり、分子生物学、遺伝子工学、環境科学なども加わり、生命、食料、環境をカバーする大きな学問分野になっていますが、その本質は、今も昔も変わりありません。環境にやさしく、高効率で持続的な農業生産を支える学問分野であると共に、新しい生物産業を創出する最先端分野であります。増え続ける人間と動植物が、緑したたる地球上で将来にわたって共存してゆくには、医学、宇宙科学、情報科学と並んで農芸化学Agricultural Chemistryは最も重要な分野です。

食べ物に関することをやりたいという初志は変わりませんでしたが、どうも酒、醤油、味の素づくりといったことは気持ちに添わず、もっと基礎的な勉強をしたいとの思いが沸々としてまいりました。その当時、分子生物学はまだ現れず、生化学に比べ、有機化学が最も体系的で進んだ学問と思われ、これを選びました。そうして大学卒業前から当時の有機化学の大先生がいる北里研究所に参り、薬の研究者の道に入りました。研究者の道を選んだことには多少の心理的経緯があります。私の父方も母方も、芝居の勧進元や米相場で破産しています。結婚して分かったのは、家内の母方の家も昭和の大恐慌の銀行倒産第一号とのこと。というわけで事業は何となく怖く、避けて通りました。要するに、ギャンブルはしないということです。ところが、研究をやってみると、真剣にプランを考え、実験しても思うようにはまいりません。やり方を色々と変えて、何十回も繰り返して初めて成功することもあれば、遂に力尽き、方針を全く変えて再出発しなければならないこともしばしばです。毎日事業に失敗しているようなものです。研究でも、ルーチンにやってそれなりの結果が出るといった分野もあります。しかし、こういうことをやっていても大発見、大発明にはつながりません。困難だが、立ち向かう価値のある目標に向かって必死の努力をいたすことは、たとえその時失敗しても必ず他日の成功の糧となるという経験を、修行時代に積みました。

この後、東京農業大学の教授となり、農薬の研究・教育に携わりました。農薬を使うのと使わないのとでは、食糧生産には何十パーセントもの開きが出ます。ここでようやく当初の志望である食物とのかかわりができました。農薬が怖い、良くないと思う諸君には別に語る機会もありましょう。人と環境にやさしい農薬を作る研究のほかに、害虫の行動を良く観察して、それを支配する情報科学物質を見つけて逆用し、殺さなくても作物を害虫から守ってやるといった化学生態学という分野も開拓しました。その元はファーブルの昆虫記です。東京農業大学での約四十年間、米国に留学、またカリフォルニア大学で教鞭をとり、また東南アジア各国、イスラエル、米国、中国などとの研究交流に従事。この間海外への出張は何十回か数え切れない程で、仕事のほか随分と観光もいたしました。こういうことは自分の専門分野で活躍する間に自然とついてくることで、研究者にはこういう楽しみもあるということを申し添えます。

以上の話を聞かれると、何か大学人を目指して、一本道を歩んだように思われるかも知れませんが、そうではありません。父が早く死んだり、ブラジルに移民しようと思ったり、農大に採用されてすぐ数年間にわたる病気療養をしたり、その折々に軌道の修正を求められました。人の一生くらい変化に富むものはありません。私の生涯の歴史は私だけのものです。諸君もまたそれぞれ異なる歴史を刻むことになります。しかし、顧みて自分の一生は良かったというのと悪かったというのとでは、誰にも共通の要素がみてとれます。親から遺伝子を通じて与えられたものを花開かせるのと、萎ませるとの違いです。花開かせるためには、水も肥料も農薬も色々のものが要り、丹精せねばなりません。何をやるにしても、ある期間の修行と訓練は必要です。その期間、将来やりたいことに備えて我慢して力をつけねばなりません。諸君の当面の仕事は、何をやりたいかを考え続け、また勉強することです。ユダヤ人の諺は言います。「一日勉強しなければ、それを取り戻すのに二日かかる。二日勉強しなければ、それを取り戻すのに四日かかる。一年勉強しなければ、それを取り戻すのに二年かかる。勉強しないものは一生を後悔する」と。諸君の中には外交官になりたい、大蔵省に入りたい、野球選手になりたい、大企業に入りたい、社長になりたい、大学教授になりたい、医者になりたい、薬剤師になりたい、などなど色々あるでしょう。しかし、世の中も自分の運命も、どう変わってゆくか分かりません。今の段階では、大まかに自分に合う、あるいは自分の好きなやってみたい方向性を考えたらどうでしょう。人が生きてゆくには衣食住、お金の充足は不可欠、宗教、文化、芸術は人間の特権です。政治家も必要です。地球の存続には環境問題は不可欠です。宇宙、海洋、生物界の未知の世界も諸君を待っています。こういう中で諸君の心に訴えるものは何か、少しずつその思いを育てて行ってください。

先輩から、愛をこめて。

 

 

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