終 戦 秘 話

                 P 永  原   實

      

運命の日、昭和二十年八月十五日も亦空襲警報に明けた。警報解除後、三七期と三八期の生徒隊は、生徒館から約十キロの開墾地での松根油採取作業に出発。この作業は、南方との連絡を遮断され、重油の補給が絶望となり、遂に、連合艦隊も大和の出撃後は、呉と横須賀軍港に蟄居の已むなきに至り、陸海の航空隊も亦羽ばたきを忘れた荒鷲となり下がり、従らに米英空軍の跳梁に任せねばならぬ悲運に見舞われていたとき、航空機の代替燃料として松根油が登場、経校生徒隊もこの作業に当たることになり、黙々として頑張っていたのである。

ところが、この日は従来の日程が急遽変更され、十時頃「作業止め」。「本日十二時、陛下の御放送があるので、只今より駆け足で生徒館へ帰る。直ちに出発」との教官の言葉に、私は、この「御放送」を「御奉送」と勝手に判断し、「愈々本土決戦で、陛下を安全なところに御奉送申し上げるのだ」と極度の興奮に血汐の躍動するものを覚えたのであった。折から八月の炎天は、容赦なく頭上より直射し、まさに気息奄々として、失神せんばかりで、互いに励まし合いながら辛うじて全員帰校。帰校するや、汗を拭く間もなく、全員直ちに軍装に着替え、一生(第一生徒館)校庭に集合。更に、「本日は陛下の重大御放送があるので、炎天下で長時間不動の姿勢を取る自信の無い者は、本日に限り整列参加を遠慮せよ」との正に前代未聞の珍妙な通達に生徒隊全員一抹の戸惑いを禁じ得なかった。このような通達が帝国海軍でこれまでに発せられたことがあっただろうか?

「陛下の玉音放送」が、「ポツダム宣言」受諾とは全く夢想だにしなかった。雑音が酷く、玉音はとぎれ勝ちで、断片的な「忍び難きを忍び::」の玉音に、先にソ連の「日ソ不可侵条約の破棄→参戦→ソ連軍の満州侵入と戦局愈々急迫し、「陛下も愈々本土決戦を決意され、国民に奮起の檄を賜ったのである」と勝手な判断を下し、「よしやるぞ」と血汐の高鳴りを覚えた。

再度の生徒呼集で、井上教頭から「敵の謀略かも知れぬが、祖国は戦いに敗れ、ポツダム宣言を受諾した旨の情報があり、大阪警備府を通じ海軍省に真偽を確かめている」旨の通達があり、程なく、「三度目の生徒呼集」により敗戦の二字を叩き込まれ、生徒館は寂として声なく、やり場のない感情に、呆然とするのみであったのである。そして、忘れることのできない八月十五日の夜は訪れたのである。折から、月は皓々と冴え渡り、生徒館は書類焼却の炎に照り映えて、書類を一枚ずつ破りながら、炎の中に投げ込み無念の涙を流す三六期一号生徒の姿は、何とも悲壮極まりないものであった。紅蓮の炎に映える生徒館をバックに、校庭で浅岡教官の悲痛なる「懐洋賦」の朗詠は感銘深いものがあり、今も尚当時の教官の声が耳について離れないものがある。

恰も私の所属三一分隊は、「天皇旗護衛」の当直であり、「米軍神戸上陸、西進中」の情報により、天皇旗及び生徒館玄関上の「菊の御紋章」を焼却のため烹炊場へ新しい薪を取りに行ったところ、主計兵及び女子軍属たちが声を堪えて咽び泣く姿に直面して、思わず大声をあげて泣き叫びたい衝動に駆られ、顔をそむけながら走り去ったのであった。

翌日からは起床ラッパで飛び起きるまでは従来と変わらないが、校庭集合、朝拝はなくて、身の回り整頓とは。「若人の活気に満ちた生徒館は何処にありや」と、何とも寂莫たるものでやりきれない。

八月十八日、遂に病弱者帰郷となる。月光冴える生徒館下、再び会う機会とて無いであろう彼等と最後の敬礼と決別の辞。正に万感胸に迫り、無念の涙禁じ得ず。

かくて、八月二十日に遂に生徒隊解散。一生校庭にテーブルを囲み、生徒隊最後の決別の宴。過ぎ去りし生徒生活幾多の思い出。尊崇措くあたわざる中に、慈愛に満ち、全幅の信頼を寄せていた紺野校長を始め、佐藤主任指導官の「約一年間、苦楽を共にした三七期と今日限り別れねばならぬとは、身を切られるように辛い」とのお言葉と涙とは、永遠に私たちの頭から消えることはないであろう。

井上教頭に続く計見教官の決別の訓示は、「今や三千年の歴史に輝く我が皇土は、醜敵の土足に踏みにじられることになったことを深く肝に銘じて忘るべからず」だった。

八月二十一日、一・二部解散。 この日は私にとり満二十歳の誕生日であった。

八月二十二日、三・四部解散。一生校庭玄関上の菊の御紋章に、品川校舎を偲びつつ、最後の挙手の敬礼を捧げる。生徒館との訣別に当たり、一句。

桜木は 激しき苦難をしのぎつつ

やがて匂わん 春を待ちけり

【平成十五年十一月二十三日永眠】

 

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