わが人生の思い出 (自分史)

                  N 鷺ノ森  正 也

 

今回、三七会文集の原稿提出の依頼を受け、やっと筆を執ることになった。平素あまり文章を作る機会の無い者にとっては、なかなか筆が進まないのだが、今回は思い切って筆を執ることにした。

そこで、自分史を、過去を振り返りながら書いて見ることにした。これなら自分の過去のことを、記憶を辿りながら書くことができる。まず初めに、誕生から現在までを箇条書きにして、その時々を思い出して自分史を作ってみたいと思う。 

一、誕生から小学校入学まで

二、小学校時代

三、中学校時代

四、海軍経理学校時代

五、終戦後のこと、三高時代

六、家業に就き、父を手伝う

七、社長時代

八、会社を閉じて、年金生活に入る

以上が誕生から現在までの自分史になると思う。

一、誕生から小学校入学まで

昭和二年五月十七日、大阪市に生まれる。生まれてから幼少期の

記憶は殆どない。

二、小学校時代

昭和九年四月、大阪市立日本橋小学校に入学した。小学校の思い出は、入学した年の九月、関西大風水害(室戸台風)を経験したことである。風速六十メートルの台風が大阪市を襲った。午前九時頃のことで学校には登校していたが、次第に風が強くなり、一年生は泣き出す者も出てきた。幸い校舎がデパートの後ろにあったので倒壊は免れたが、市内の沢山の小学校が倒壊し、多数の死者が出た。また、市内の低地では水害のため、沢山の人々が犠牲になった。それ以外の小学校の思い出は、殆ど忘れてしまった。ただ、六年間ずっと、クラスの中では成績は上位であった。

昭和十五年三月、日本橋小学校を卒業した。

三、中学校時代

昭和十五年四月、大阪府立今宮中学校に入学した。当時、今中は

進学率も良く、スポーツでも良い成績をあげていた。叔父の勧めもあり剣道部に入部した。夏は暑中稽古、冬は寒稽古と励んだお陰で、卒業までには二段の免許を取ることができた。当時教練も大事な教科の一つであった。張り切って頑張ったお陰で、五年の時には週番肩章を肩に掛け校門に立ったことも度々あった。

この頃に、予科練の募集があり、同期の何人かは応募して入隊し

ていった。こんなこともあり、父は、一人息子ではあるが、いつかは軍隊に入らねばならない、それならと海軍経理学校の受験を勧めた。かくして五年の途中から海軍経理学校を受験、合格した。合格の通知は、通学の途中で電報の配達員が我が家に入るのを見て帰宅したところ、合格の通知であった。この時の喜びは今でも憶えている。

四、海軍経理学校時代

昭和十九年十月、憧れの経理学校に入校した。

しかし、当時大阪でデング熱が流行しており運悪く入校の二、三

日前に罹ってしまった。高熱の中、父と共に夜行列車で上京したが、早速診断の結果入室となった。どれ位入室していたのか覚えていない。兎に角一五分隊に戻った。その間厳しい訓練が行われていたので、遅れていた分を取り戻すのは大変な苦労だった。

海経時代の十カ月は、思い出も沢山あるが、今回は自分史という

ことで割愛した。今中からは、海経に入ったのは、吉川昭二君(昭・五一・三・七に亡くなっている)、と、先輩では二八期の鷹津さんの三人のみで寂しい限りである。なお、一五分隊では、昭和五十二年一月に当時片山潔君の努力により、文集「若鮎」が編集され、当時の三号が夫々の思いで寄稿した。二号時代は、二五分隊に編入された。現在でも毎年一回東京で分隊会が開催されている。

やがて、戦局悪化して昭和二十年八月終戦となる。

五、終戦後のこと、三高時代

昭和二十年八月、終戦により海軍経理学校生徒を差免された。各

人、夫々故郷に帰ることになった。幸い帰る所は近くの大阪だったので、その日の内に帰郷した。家は空襲で被災し、堺市の石津川に転居していた。その後、旧制高等学校の受験資格が与えられたので、昭和二十年十一月、京都の三高を受験した。志願者多数の中、幸運にも合格して二年に編入された。当時少ない合格者の中、海経の出身者で殆ど占められていた。色々の経過があったが昭和二十三年三月、三高文科甲類を、卒業することができた。

三高時代の思い出は、排球部に入ってインターハイに参加し、青春の一時期汗を流したことである。

六、家業に就き、父を手伝う

三高卒業後、大学受験に失敗したため、家業を手伝うことになっ

た。戦災の後、父が罹災前の元の場所にバラックを建て商売を始めていた。昭和二十五年三月、鷺ノ森商事有限会社に入社、本格的に営業の業務に携わることになった。大阪市内は勿論、地方の得意先にも出張して売り上げの増加に努めた。

昭和三十年十一月、結婚と同時に代表取締役に就任した。

七、社長時代

その後社業は順調に発展したが、昭和四十二年六月に父を、七月

に母を亡くした。四十年代、五十年代と、バブル期に入り、景気は上昇、売り上げも増加していった。経費も増加していった。そして、遂にバブルの崩壊となる。その後、年毎に売り上げの減少が始まり、収支のバランスが崩れてきた。全盛期には同業者の組合長をしたり、町会の役員、同窓会の会長、その他地域社会への奉仕、また司法保護司を委嘱され、犯罪者の保護更生に微力ながら力を尽くした。

八、会社を閉じて、年金生活に入る

平成に入りバブルが崩壊して、会社の売り上げが減少していった。平成十三年十二月、五十年続けた家業をやめ、会社を解散した。その後年金生活に入り、現在は、午前中はプールに通い、午後はパソコンなどで毎日を元気で送っている。

結論として、バブル崩壊までは「我が人生に悔いなし」だったが、

バブル崩壊後は「我が人生に悔いあり」になってしまった。今後は、残された人生を健康に留意し有意義に過ごしたいと思っている。

 

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