短剣少年時代抄

                 N 川 内  利 一

 

私たちの海経生徒生活は一年足らずであったが、それは私にとっても、その後の半生にも匹敵する「自分史」的な思い出を与えてくれている。今でも私は、玄関ホールに番号付きの靴箱のある施設に行ったり、旅館などの大風呂に衣類入れロッカーが並んでいたりすると、いつも「十五」番のそれを使うのが癖になっている。三号生徒時代の分隊番号である。それがすでに使われていたりすると、二号時代の「二十二」分隊にする。この三七会でも、三号の時の分隊名が自己紹介のキイワードになっているが、海経時代の分隊番号は私にとっての生涯の暗証番号だと言えよう。

私の出身中学は、静岡県の榛原(はいばら)中学である。今は夏になると賑わう静波海水浴場のある、駿河湾沿いの田舎町にあった中学だが、明治時代に創設された県内でも古い県立中学だった。私が入学してからも毎年、上級生たちが陸士や海兵に合格していたが、海経は私が初めてだった。学校の歴史で言うと、海経の生徒になった同窓生は私が二人目で、その第一号である、経校一一期の山本先輩が戦死されていたのを私が知ったのは戦後であった。私はその先輩の墓碑を探して墓参したこともあった。

私たちが海軍生徒になった当時は、しかるべき人を保証人にした誓約書のようなものを学校に提出する必要があったと思われる。と言うのは、榛原中学の勤労教育で有名な校長さんが、その保証人に、東京の軍人会館の理事長をされている知人で郷土出身の篠田次助陸軍中将になってもらってはどうかと、私の父に勧められたのである。海軍の学校に入学する保証人に、陸軍の将官ではという戸惑いはいくらかあったが、私と父は経校入学の前日、九段の軍人会館に篠田中将をお訪ねした。私が経校の入学式後、校外者に入学報告の便りを緊張して書いた第一便も、篠田中将宛てであったと思う。

日曜の外出時に実家に寄ることのできた東京や神戸出身者は別として、同期諸兄の多くは、戦時中にその短剣姿を郷里の人々に見せたことはなかったであろう。だが私は、昭和十九年の十二月母が病死し、二泊三日の帰省許可を得て静岡の田舎に帰ったことがあった。母は九月に私を経校に送り出す時は元気だったが、胃からの急性出血があって死去したとのことであった。厳しい時局の軍の学校のことで、父はその死を知らせることを一時はためらったようであったが、私は分隊監事から「ハハシス」という電報のことを知らされた。品川から郷里に急いだ私は、短剣を帯び礼装用の白手袋に母の位牌を持って葬列に加わったが、親不孝な私は、母を亡くした悲しみと同時に、近隣の人々に私の晴れ姿を見せる秘やかな快感をも感じていた。今も私の家の仏壇にはその葬儀の時の「香典帳」が保存されていて、「海軍経理学校第十五分隊生徒一同」という名の芳志が書き残されている。

ここで戦後の私の身辺報告を簡単にしておくと、例の文部省通達というやつで旧静岡高校に編入学した私は、本郷の文学部の国文科に進んだ。そして、卒業時に肺結核が見つかり、家でしばらくぶらぶらしていたこともあったが、やっと就職した静岡県の公立高校に定年まで勤めた。それから第二現役で静岡市にある私立短大の国文科に勤めたり、県立大の非常勤講師をやったりしたが、今はそれも終わって平穏な日々を送っている。

垂水以後の同級諸兄との往来を薄れかけた記憶の中で振り返ると、三号時の同分隊諸兄とは大学卒業頃まではかなり会っている。二号の時も同分隊だった水谷浩二兄とは、学部は違ったが、大学地下の喫茶メトロでよく駄弁ったし、やはり三号同分隊の由良兄が投げた六大学野球の試合にはいつも応援に行った。応援に行くと、また本郷に集まって来ていた海経同期の諸兄に会うことができた。

そうした級友往来も、静岡に居着いた私の怠け癖で次第に縁遠くなったが、垂水での合同級会には出て、関西の鷺ノ森兄や小泉兄には会っている。三号時にはベッドを並べていた同期一番の海経男日下兄とはあちこちで会っているが、いつだったか県内の或る高校同窓会から海経に進学し戦死した同窓生の戦死状況を調べてほしいという依頼を受け、それをさらに彼に頼んで詳報を得たこともあった。昭和五十二年に一五分隊文集『若鮎』を編集してくれた片山潔兄は、その後私が短大で文章作法などを講じていることを知って藤枝の拙宅まで来られたことがあったが、彼がご自分の海軍一家のことを書かれた著書を貰われた諸兄も多いかと思う。その日下兄も片山兄も他界され寂しさを禁じえない。

当地静岡県には海軍生徒出身者の親睦会があり、その会合に、兵校出身の会長さんとの縁で経校二五期の岡田貞寛さんがよく東京から招待出席される。それで、経校からの出席者が他にほとんどいないこともあって、私が大抵いつも岡田先輩の「副官」ないしは三号生徒役を務める。私の生徒時代の聞き覚えに、「海軍に入って嬉しいのは、連合艦隊司令長官か一号生徒になった時」というのがある。二号で終戦になった私たちは一号になり損ね、いつの間にかいいトシになってしまったが、岡田先輩などのお元気な生き方を見ていると、あの一号生徒たちに鍛えられた三号時代のことを忘れないでいることこそが、もう暫く若々しく生きる秘訣だと思われてならない。

 

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