海軍と私の戦後

                 M 藤  井   勝

 

一、海軍経理学校時代

我々の少年時代は、軍事教育の影響により、男子は成人の暁には軍隊に入ってお国のために尽くすこと、これが日本国民としての義務であり、本分であると教えられておりました。したがって、私も成人すれば軍人になることは至極当然であると考えており、中学校高学年になった時、その進路を決定することが必要となりました。決定に当たり、自分は、瀬戸内の海の近くで育った関係から水泳は得意であるが、歩くことは不得意であるので、できれば陸軍より海軍に進みたいと思っておりました。海軍関係には、海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校などがありましたが、そのうち海軍兵学校と機関学校は私の視力が合格ラインに達しないために、受験することができず、経理学校しか受験できないことが判りました。当時海軍経理学校は極めて難しいと言われておりましたが、只管勉学に励み、なんとか合格することができました。

昭和十九年十月の経理学校の入校式には、郷里の岡山から長兄と共に、夜行列車で上京しました。三号生徒として配属されたのは第十四分隊であり、二号生徒になってからは、第三十一分隊に配属されました。入校して最初に一号生徒に接した時は、「自分でもこんなになれるだろうか」とそのスケールの大きさと迫力に感じ入りました。また、二号生徒からは、実の兄のように接して頂き、いろいろと陰に陽に指導とお世話を受けました。  

在校中の思い出は色々ありますが、特別な印象の一つとして、今でも忘れられないのは、殴られて目から星が飛び出すということを生まれて初めて経験したことが挙げられます。今こうして生徒時代を回想致しますと、まことに懐かしく、多感な青年時代の体験だけに、自分の人生観を決定づけるほどの貴重なものであったと思っております。経理学校入校以来終戦まではたったの十カ月でしたが、その間の印象は、それから後の六十年に垂んとする今日でも、当時と変わることなく強烈に残っており、それ以後何か苦しいことや困難に遭遇した時には、経理学校であれだけのことに耐えられたのだから、これに耐えられない筈はないと思い、頑張りの原動力として参りました。

海軍経理学校で過ごした経験が如何に強烈であったかという証しとして、齢七十五歳になる今日でも、急ぐ時には今だに階段を二段ずつ駆け上がることがありますし、在校時代に書いておりました自啓録を今だに書いております。特に自啓録は毎年一月一日の他、何か自分にとって意味深いことが起これば必ず書くことにしておりまして、今のところ自分だけのものとして、他の誰にも見せておりません。私が亡くなった後、家族の者達が見た場合に、良人や親父はこのような考え方で人生を過ごしていたのかと、小生を思い出すよすがになればよいがと思っております。

二、戦後の時代と現在

 昭和二十年八月の終戦で、垂水から故郷の岡山県倉敷市児島に帰った時は、暫くは呆然として何から手をつけてよいかわからないままに過ごしておりました。特に、敗戦後の日本がどうなるか不明であったことが一番こたえました。私は家業の織物屋でも手伝おうかなどと考えておりましたが、丁度その時、海兵七六期のコレスであり、中学校も同じ岡山一中であった岩井靖雄君が拙宅まで来て、「藤井君!やはりもう一度人生をやり直すつもりで、高等学校に進学し直そうではないか」と誘いがあり、「それでは、まだ若いのだからやるか」ということで方向が決まりました。そこで昭和二十一年春、岡山の第六高等学校を受験して合格し、新たな第一歩を踏み出すことになりました。岩井君は理科に入って京大へ、私は文科に入って東大へと夫々の道へ進みました。高等学校では「哲学と倫理学」を学びましたが、これを学ぶことによって、私は物事を深く考える習慣を身につけることができたと自負しております。今でも何か事に当たっては「命題そのものを疑う」ことから始める習慣がつきました。これだけは海軍では身につけることができなかったであろうと思っております。

 私は、海軍経理学校で叩き込まれた「スマートで且つ頑張りの精神」と、高等学校で学んだ「深く考えること」の両者を基礎として人生観を形成し、今日に至っていると感じております。そのいずれが欠けても現在の自分はなかったと言っても過言ではありません。

 大学卒業は昭和二十七年であり、家業の方に少しでも役に立つことができればと、当時十大紡の一つであった大和紡績に入りました。その当時は、大学卒業者の殆どが繊維関係、石炭関係、鉄鋼関係という重厚長大産業に就職しておりました。大和紡に入りましてからは、最初の二十年間は人事労務関係の仕事に携わり、次いで工場長を経て、監理関係の業務に従事した後、監査役に就任し、大和紡績、その子会社のダイワボウ情報システム、ディーアイエスシステム販売と一貫してダイワボウグループの一員として勤務致しました。その間には、商法学者で文化勲章受賞者である、今は亡き「大隅健一郎先生」の知遇を得て、企業自体の思想や企業としての株式会社の本質を学び、知識を深めることができましたことは、誠に幸いでありました。

平成十四年六月には大和紡績入社以来満五十年を超え、年齢も満七十五歳を過ぎて、やっと家内と二人だけの自由なゆったりとした時間を持つことができるようになりました。約半世紀の間勤めたわけですが、これからは妻と二人で、共に健康に留意して、ボケることなく、一日一日を大切にして、海軍で教えられたスマートな日々を送りたいものと心しております。 

 

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