海経入校前から医師への道

                 M 佐 多  和 秀

             

1、昭和十九年五月、熊本県の中学四、五年生は、鹿屋の海軍航空隊の掩体壕造りに動員させられました。一カ月の予定でしたが、一日の降雨もなく、一カ月半経っても終わらず、海経の入試を二週間後に控えて、熊本県の視学(私の弟の小学校時代の担任の先生)が私を訪ねて来られ、私が先生に「何で来られましたか」と尋ねたら、海軍の学校が受験を控えており、明日受験生を帰熊させると申されました。私は視学に、「皆くたくたです。帰すなら皆一緒に帰して頂けませんか。受験生だけなら私は帰りません」と申し上げたところ、視学は熊本県と連絡を取られ、差し当たり翌日全員帰熊することとなりました。翌日私達は汽車で帰り、次の日登校したら、配属将校に呼ばれ、大声で「非国民」と怒鳴られ、指揮刀を掴んで、今にも切り殺すぞと言わんばかりに睨まれました。部屋を出たところ、教員室に呼ばれ、担任の先生からも「非国民」と大声で怒鳴られました。

2、海経の合格発表の一週間後に陸士の発表もあり、私は昭和十九年十二月入校の陸軍航空士官学校にも合格となり、配属将校室に呼ばれ、「航空に適性でない奴(陸軍士官学校の身体検査の折に、眼科で不合格と言われました)を合格にしてもらったのだから、お前は航空士官学校に行くんだろう」と言われましたが、「海経へ入校の通知を出しました」と答えたら、大声で「帰れ」と言われました。戦後済々黌に挨拶に行ったら、配属将校は、私たち中学三年の時に提出した写真集を私に「使え」と投げられました。担任の先生は笑顔で、「お前があの時に言ってくれたんで、帰って食事もできたんで助かったばい」と申されました。

3、海経で中学のC先輩にお世話になったこと

昭和十九年十月一日に海経入校のため、校門を入り、玄関の受付に向かったら、済々黌の先輩の三五期のC生徒が、手を挙げ「おーい、待ってたぞ」と叫んで頂き感激しました。入校後時々廊下でお会いしますと、「おい頑張れ」とよく励まされました。最も印象に残りますのは、昭和十九年末一週間の午後外出の時があり、三号生徒が帰校五分前を切った者が三日間続き、十二月二十八日の夜、今晩は総員ストームがあるらしいとの噂が伝えられていたところ、夜七時に長い「ぴーっ」との音で剣道場に三号総員集められ、級長の厳しい説教の後、「かかれ」の号令で鉄拳制裁が始まりました。数えておりますと三十八発の時、C先輩が前に立たれ、厳しく見つめ合っておりましたが、「やめー」の号令でC先輩はすーっと去って行かれました。私の横に立っていた熊本中学出身の久米野に聞きましたところ五十二発だった由で、「先輩はいいね」と申しておりました。C先輩は卒業して行かれる時に、当時の左翼の方々の著書を十冊持ってこられ、暇があったら読めと置いて行かれました。戦後も色々の事でお世話になっております。

4、医師への道

戦後帰熊してから、中学の先生に「学校へ行け。医師へはどうか」と言われ熊本医専に入学し、一週間目から熊本市医師会長の西郷外科病院に住み込まされました。病院では、朝登校前に二、三例の手術の手伝いをし、午後三時頃帰院すると、院長は市医師会長の仕事に出かけられ、夕方の外来は私が行い、六時頃帰院後、また二‐三例の手術の手伝いを行い、夕食後八時頃から病室の回診を行いました。その当時、中国の春秋左氏伝の古語に由来する、「三折肱、知為良医」の「折肱」という古語に関連して、「何も知らないお前は患者の枕許に行き肘をついて患者さんの病状を教えてもらうんだ」と教えられました。当時は医師の免許もないのに外来の診療を行い、また、インターン当時、県の医師会に三回、西郷病院の症例を発表し、会報にも発表しました。

5、入院患者さんのご縁で上京してみないかとの話があり、元海軍軍医の先輩に相談したら、院長が先輩の稲田登戸病院を勧められ、昭和二十七年三月上京してきました。院長は、中学、熊本医大出身の先輩で、終戦時、海軍省医務局の人事課長、その下に副院長と外科医長がおられました。病院では、若気の至りで会議等で発言すると、院長室に呼ばれ、人を使ったことのない奴が人事に口を出すなと叱られ、部屋を出ると副院長室で「ブルータス」とか、また「貴様は」、「貴様は」とよく怒鳴られました。しかし、これらのご縁と、上京して三七期と先輩の方々とのご縁で、今日まで医の道を辿らせて来てもらっております。

6、吉松君との別れ

現在、介護老人保健施設「遊花園」で施設長をしております。遊花園は稲田登戸病院と同じ敷地にあり、同病院から柿生病院に停年で転職しておりました時に、遊花園の施設長を依頼されましたが、直ぐには行けないので、私が勤務できるまでの間の誰かを紹介してくれとのことで、丁度、吉松君(三号一分隊、二号六分隊。慶応外科から産業医科大学外科教授に行き、名誉教授となり横浜に帰ってきていた)に相談しましたら、「俺が辞めると言ったら、貴様は嘘をつかないで、必ず後を取るんだぞ」との約束で平成八年十一月から来てくれました。一応平成十年八月までとの約束でしたが、彼から平成十年四月に退職を早めてくれとの連絡があり、どうして早めるのかと聞きましたら、急いでやらねばならぬことがあるからとのことでした。彼は平成十年二月に吐血して北里病院に入院したりしておりました。平成十年三月三十一日に遊花園で吉松君と私の歓送迎会が行われ、午後五時に握手をして別れたところ、彼は四月一日午前に、自宅で大吐血し翌日死亡した由で、ご令室様から大往生でしたとの連絡を受けました。昔は素手で手術を行っていたので爪等の間から現在流行のC型ヴィルス等の感染を受け、黄疸が出現した時期もあり、肝硬変、肝癌になり食道静脈瘤が出現し、彼は慶応内科の同級の教授から、あと六カ月の寿命だろうと言われていた由です。全く残念な別れでございました。

 

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