海経の思い出とその後

              K 廣 川  東 一

             

○入校まで

 私は長岡藩の「米百俵」の流れをくむ長岡中学に昭和十五年に入学した。次第に戦局は厳しくなり、高等専門学校の徴兵猶予の特例も廃止され、学徒も出陣。山本五十六(長岡中学の先輩)に続けということで、全員軍関係の学校を志願せよ、と言い出す熱血漢の先生も出てきた。私も、国のためいずれ軍隊に行くならと、海兵をめざして頑張ることとした。

 昭和十九年七月、海兵受験のため新潟市に行った。午前中に筆記試験があり、午後張り出された受験番号表から不合格者が消されていったが、私の受験番号は最後まで残った。その後身体検査、面接があったが、試験官が「君の視力は〇・六で海兵は駄目だ。君の成績は海経でも大丈夫と思われるので変更しないか」と言われた。視力がこんなに落ちているのに驚くとともに、海経は自分には難しすぎると思っていたものなので、「是非お願いします」と最敬礼をした。九月に入り、勤労動員先の名古屋に長岡の実家から海経の合格通知が来たとの連絡があり、急いで帰郷した。

○海経の思い出

 昭和十九年十月一日、期待と不安を抱きながら品川の海経の門をくぐった。中学の服装で記念撮影、ついで軍装の着付け、初めての軍服姿はまさに感激の絶頂であった。

 一二分隊に配属。入校式が終わった夜から事情は一変。娑婆っ気抜きの初の鉄拳。学年単位の時間以外は常に一号の厳しい監視下にあった。疲れてゆっくり歩いていると、不思議なほど一号が見張っていた。海軍体操、軍歌演習などもあった。一日が終われば巡検。その前にベッドカッターや一日の締めくくりの一号の怒声と鉄拳。あまり殴られるので数えてみたら、数え出して一カ月も経っていないのに三十七回、馬鹿らしくなってやめた。またクラブで三号だけの時、皆で一号の鉄拳の痛さの順番をつけたこともあった。

 昭和二十年二月、垂水校に移った。垂水では寝室が二段ベッドになるなど極めて手狭であった。相撲や水泳の訓練もあった。三月、一号が卒業、正門に整列して涙に咽びながら帽子を振って見送った。

 四月になると三八期が入校し、私は三七分隊の二号になった。後輩ができたのは実に嬉しかった。開墾作業や野戦訓練などもあるようになった。

 何といっても垂水での思い出の最たるものは、終戦である。当日私は腹痛で休業であったが、一二〇〇総員校庭に集まるよう指示があった。玉音放送は雑音が多く内容は分からなかったが、前の方から終戦だと伝わってきた。解散して分隊に戻ったが、皆虚脱状態だった。腹痛はどこかに飛んでしまった。八月二十二日、「衣嚢」をかついで垂水駅に行き、分隊の皆と別れを惜しみ、戦災直後の長岡市郊外の実家に無事辿りついた。

○雑感

@ 終戦により今までの軍を通じての忠誠心が一挙に崩れ、加えて先行き不安で悶々とする日が続いた。この状況を救ってくれたのが、「校長名の通達等による進学・就職の進路指導」であった。あの終戦の大混乱の中、若い海軍生徒の将来を考え進学の選考方法、転入日など短期間でよく決定されたものだと感心する。お蔭で再出発することができ、私の今日があるといっても過言でないと思っている。

A 我々の海経の生活は、絶対服従の縦社会の分隊の中で、いわゆる海軍魂を体得するための伝統あるものであったと思う。この特色ある体験を後世に是非とも伝えておきたい。

B 多情多感の青年期に海軍生徒として鍛えられ、耐えること、くよくよせず割り切ること、さらに几帳面さも身につけた。これらは私のその後の社会生活の基礎になったものと思っている。

C 我々の海経の鍛錬は辛く苦しいものであり、連帯意識の強いものであった。時が流れ齢を重ねてくると、当時の苦悩が強かっただけに懐かしさも増幅されてきている。

○その後

 昭和二十年十一月、私は新潟高等学校文科二年に転入学、京都大学経済学部に進み、昭和二十五年に日本銀行に就職した。昭和五十五年に考査役で同行を退職、八木短資株式会社に転職、平成四年専務取締役で同社を退職、自適の生活に入った。

 日本銀行には、海経生徒から三六期の郡山邦春、松井博さんが、昭和二十五年には大卒として三五期の白川光夫さん、三六期の北村紀雄さん、三七期の松岡潔さんと私の四人が入行した(二十六年には三八期の六村弘さん、故人)。皆が一緒に集まることはなかったが、会えば意思が通じ合っていた。皆夫々の部署で大いに活躍されていた。

 なお、私は現在、難聴と前立腺手術の後遺症で悩んでおり、万事静かに暮らしている。

 

 

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