弥縫録から

                 F 寺 井  正 芳

 

一、琴の海べにもとおきて、名にこそ負へれ大村の、中学の窓あけくれに、いそしむ子弟心せよ、一日再び明けがたし、・・・旧制大村中学校校歌の第一節である。詞は土井晩翠、曲は山田耕作である。琴の海辺とは、琴のかたちをした波静かな大村湾の別称で、琴湖とも言われている。湾内の奥深くに浮かんでいた豊饒の島、箕島に昭和五十年世界初の海上空港が誕生し、長崎空港として開港した。この空港と大村市を結ぶ箕島大橋を渡ると、天正遣欧少年使節顕彰の像がある。天正十年(一五八二年)伊東マンショ以下四名が日本人として初めてヨーロッパを訪ねた。この四人の少年達の勇気を称える記念像である。明治になり、日本古文書学の先覚者黒板勝美は、明治二十三年七月大村中学を卒業し、五高、東大を経て教授、史料編纂官を兼ね、大日本古文書の出版に尽力し、文学博士、斯界の重鎮として、その盛名はよく知られている。昭和十六年十二月開戦時の大本営海軍報道部課長、平出英夫海軍大佐は、大正三年三月大村中学卒業で、ミッドウェー海戦後中学を訪れ、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という班超の故事を引用し、本海戦の意義を強調されたように記憶している。当時大村には、陸軍は第四六歩兵連隊、海軍は大村海軍航空隊があり、日支事変に際しては、渡洋爆撃の出撃基地、開戦前は零戦、艦爆の練習基地として有名な軍都であった。また、戦後の史実によれば、昭和二十年七月二十四日の豊後水道上空邀撃戦に活躍した紫電改の進発基地でもあった。

昭和十九年に入り、高専志望を軍諸学校にかえるよう慫慂があり、海軍機関学校を受験した。五月中旬の身体検査で視力不足と判定され、海軍経理学校に志望変更し、七月中旬の筆記試験を受け、最終日まで残り合格した。入校出発に際し、恩師池田先生から、餞としてファウストの原書を贈られ持参した。工場兼自宅は、入校直後の昭和十九年十月二十五日の大村海軍航空廠の大空襲で灰燼に帰し、何一つ残らなかった。持ち帰ったこのファウストだけが唯一の宝物となり、座右の書となった。

二、海軍経理学校の座学で、今でも脳裏に残っているのは、牧野英一博士の法学通論である。「ローマ法を通ってローマ法の上へ」、「ローマは三度世界を征服す。一つは武力によって、一つは宗教によって、もう一つは法律によって」、「法律なければ刑罰なし―罪刑法定主義」といった法諺が想い出される。戦後、十月五高文科を受験し、編入学した。確か、「自由について」という作文が出題された。牧野博士の講義を思い出し、近世以来の自由について記述した。十月下旬、編入学前日頃、熊本北西部にある肥後本妙寺に参詣した。仁王門から桜並木の参道を経て、胸ガンギと呼ばれる急勾配の石段をのぼり、加藤清正の菩提寺にお参りした。そのあと、門前の店に立ち寄り物色しているうちに、家の人がヒョイと顔を出した。その人を見た時、びっくり仰天、夢の中の出来事かと絶句した。三八期同分隊の徳永昭三君であった。彼は、その後弁護士となり、東京第二弁護士会会長として活躍した。又、名文家であるとともに、小咄研究家としても有名であった。

軍諸学校からの編入学について、当初反対があったが皆旧知の間柄で、しばらくして騒ぎもおさまった。海経三七期で二年編入したのは石坂和夫、宇崎穆夫、瓜生秀美、金崎公英、木村一郎、島田敏夫、寺井正芳の七名で、在学中同期であると分かったのは、石坂、瓜生の両君であったろうか。島田君はクラスメイトで、英語がうまく教授をあわてさせたり、代わりを命ぜられたり、その頃から、片鱗をうかがうことができる。まさか同期とは当時分からなかった。

三、昭和二十九年防衛庁発足とともに、陸上自衛隊に入隊し、主に調達・会計を担当した。新聞紙上「兵站」という用語をみかけることが最近多くなった。辞書等では、戦場の後方で軍用品の供給および連絡線の確保などに当たる機関と書かれている。軍事用語では、国家の策源から末端の個人に至るまでの継続一貫した機能であり、補給・整備・回収・輸送・衛生・建設・不動産・労役務等の総称である。このうち補給について述べると、第一種補給品から第十種補給品まであり、次のように区分されている。

第一種補給品 糧食   第六種補給品 日用品

第二種補給品 定数品  第七種補給品 主要装備品

第三種補給品 液体燃料 第八種補給品 衛生資材

第四種補給品 築城資材 第九種補給品 整備用部品

第五種補給品 弾薬類  第十種補給品 地図・水

これらのうち直接、また日々直接戦闘に緊要なものは、第一種の糧食、第三種の燃料、第五種の弾薬であり、一、三、五種と略称し、兵站運用の骨幹である。平時における調達は、物品管理法に規定する物品管理官が要求し、契約するのは、会計法に規定する契約担当官である。予算執行職員等の責任に関する法律により、相互牽制方式を採用している。契約に当たって一番頭を悩ますのは原価計算である。西部方面総監を最後に退官された荒武太刀夫元陸将は、五高、東大を経て陸軍に奉職、戦前訪独使節団の随行員として、ドイツの原価計算を修得し、帰朝後軍需品調達の適正化に貢献されたと聞いている。主要装備品である戦車、航空機等の調達は、競争契約になりにくい。一社随意契約が殆どである。契約に当たって特装品が多く、市場価格採用に限度がある。もっとも分からないのは、工数である。戦前であれば、海軍工廠、兵器廠で試作品次いで完成品をつくり、材料、工数を把握し、これらをもとに会社に発注したであろう。最後の勤務は、三五期故六反園文雄元陸将のもと武器装備品(戦車・大砲・航空機・弾薬・ミサイル等)の部品調達並びに整備に関する調達に従事した。工数査定が最大の課題であった。装備品の調達に当たっては、公正性・透明性・経済性が要求される。最近の調達改革では、供給ソースの多様化、複数企業からの提案、仕様の改善、並びに企業側のコスト削減等により、一層の効率的な改善が図られている。

四、荒武さん(前掲の荒武太刀夫元陸将、愛称でさんづけしていた)が部内の会誌で「人間は努力する限り、迷うものだ」しかし、「善い人間は、よしんば暗い衝動に動かされても、正しい道を忘れてはいないものだ」というファウストの天上の序曲を引用して説諭されていたことを覚えている。まさにその通りで、迷妄と忘却にみちた弥縫録もこれで終わればと考える今日である。エッカーマンは、ゲーテとの対話の一八三二年の末尾に、「ゲーテは、・・・身体中どこにも、脂肪ぶとりや、やせすぎや、衰弱した跡はみられなかった・・・」と銘記している。人生の大半を終え、少しでもこれに近づきたいものと念願している。

 

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