海軍と小生

                 D 米 川  義 之

 

海軍への志願

小生が中学二年の秋、昭和十六年十二月八日、大東亜戦争は勃発した。その朝、「帝国陸海軍は西太平洋に於いて米英軍と交戦状態に入れり」と報道、間もなく聖戦の大詔が渙発され、更に真珠湾攻撃の大戦果が発表された。その時我々中学生は「遂にやったぞ」と躍り上がって喜んだ。事のよしあしは別として、日本民族の一人として血沸き肉踊る感動と感激は、今なお忘れることのできないものだ。

小生は子供の頃から腺病質で、しかも学業は、首席を通した兄貴とは違いビリケツの方で、親父から「おまえは中学には入れないから『床屋さん』にでもなれば」と言われていた。そんな軟弱な小生も、時代の波を受けて、体を鍛えて立派な海軍軍人になりたいと思うようになった。中学三年生のとき、上級生で肩をいからしがに股で校内をのし歩いていた不良が、予科練に入り、休暇で帰省した。純白の軍服で七つボタン、更に白手袋、そして不動の姿勢で挙手の礼、「今帰った。みんな元気か」との、その凛々しい態度と姿勢に感動させられた。海軍の訓育はすばらしいものだと思った。

三年の秋予科練を志願したが、近眼ではねられ、海軍軍人になるには天下の難関といわれている海軍経理学校に入る以外にはない。勉強が嫌いな自分が合格できるとは思えない。どうすべきかと迷っている頃、「海軍」という映画が上映された。和歌山市まで変装して見に行った。青年士官が、自分より年上の部下に一緒に潜航艇に乗るように煙草をすいながら言いにくそうに依頼するその光景には、本当に胸を打たれた。この獅子文六作の映画で、何はともあれ海軍軍人になるため海軍経理学校受験を決意した。

海軍受験のため三カ月遅れて、動員先の明石の航空機会社に行き、不良の集まりの設備班(炎天下の重労働)の班長にされた。今までの不満が爆発してストライキに入った。いろいろあったが、班長としての責任から一カ月の謹慎をくらって家へ帰った。寮に戻った次の日、九月一日が陸海軍の合格発表。夕方までに陸軍に合格した連中が判明したのに、自分には何の連絡もない。もう駄目かと、陸経に合格した親友と食堂で遅くまで話し合って、暗くなった道を寮に帰る時、「よねやん」「よねやん」と呼ぶ友達の声、「お父さんから電報だよ」と。父から「カイケイゴウカク ジチョウセヨ」との電報に小躍りした。みんなが自分の部屋に集まって祝福してくれた。明日帰ると決意して、寮の責任者の先生のところへその旨報告に行くと、「入校するまで、ここで仕事をするように」と言われた。そこで、「私は天皇陛下に召された身であります。何と申されても明日帰ります」とその場を辞し、明くる朝寮にいる四、五年生に寮の間に集まってもらい、「皆さんより一足先に参ります。皆さんが後に続くのを信じて頑張ります。皆さんも元気で頑張ってください。それではさようなら」と挨拶して家へ帰った。

海軍経理学校への入校

昭和十九年十月一日入校。心配した体格検査も無事終わり、三七期三号生徒として五分隊に配属された。生徒達に最も有名な杉山大尉が、分隊監事として凛々しい軍服姿で「みんなお目出度う」と五分隊の部屋に入ってこられた時は嬉しかった。その時、「私は和歌山です」と申し上げたら「和歌山県人は駄目だね」と言われたので、「私は新宮中学からの転校ですが、紀北とは全く気風が違います」と申し上げたら、「そうか」とにっこり微笑まれたのが印象的だった。後で分かったのだが、杉山教官は和歌山中学出身だった。

晴れの入校式を終えたその夜、五分隊の一号生徒(杉山、関、吉水、八木、高橋、町田)六名から、三号三十一名は初めての鉄拳制裁を受けた。一列に整列させられて、「気を付け、眼鏡を取れ、歯を食いしばれ」。そして拳骨の甲ではなくその内側で的確に一発ずつやられた。中学時代木刀や竹刀でまた拳骨もその甲で無茶苦茶にやられたリンチとは違って、何と紳士的なことだろうかと、本当にすばらしい学校に入れたものだとしみじみ思った。しかし、都会育ちの連中の中には親にも殴られたことがないと驚く者もいて、野蛮な田舎の中学との差を思い知らされた。二十年の一月末、品川から垂水に移ったが、一号生徒の卒業が近くなったある夜、山村と二人一号生徒の荷造りの手伝いを命ぜられた。その時ウイスキーをご馳走になった。杉山伍長が恩賜の短剣と聞いていたので、この際と思い切って、「軍隊で同じ条件の中で一番になる秘訣があったら教えてください」と言ったら、「杉山教官から予習に徹して授業中にマスターしてしまうことだと教えられた」とのこと。確かにそうだ。ひょっとしたら恩賜の短剣も夢じゃないぞと、一瞬思ったものだった。

三五期生徒の卒業式。式が終わって愈々少尉候補生としての晴れの門出。それを見送るため校門の内側の左側に在校生、右側に一号生徒の父兄が立ち並んだ。その中を少尉候補生の真新しい軍服に着替えて軍刀を夫々に左に持った一号生徒が進み出て来る。この校門を出て戦地に赴けば、最早二度と顔を合わせることもなくなるかも知れないのに、一号生徒で父兄の方を見る者は一人もいない。そして、みんなが我々三号の方に駆け寄って「三号頑張れよ」、「しっかりやれよ」と切々たる声をかけ、かつて鬼のように怖かったその一号生徒の目に涙が溢れるのを見た時、我々三号は全員こらえることができずに号泣してしまった。三五期生徒は、我々三七期が十月に入校するまで三六期と六カ月間二期だけの変則的な状態で、三号の訓育も六カ月で仕上げなければならず、しかも三号は五倍の人数、戦局は益々厳しくなり、一号生徒は必死の思いで我々三七期の訓育に全力を傾注されたことと思う。また、その一号生徒の気持ちは、数百発に及ぶ鉄拳制裁を通じて肌身に感じていた。それが、あのような感激の情景を生じたものと思われる。卒業式には、いじめられた生徒が校門に待ち受けて報復する昨今の中学校では考えられないことであり、こんな素晴らしい卒業式がどこにあるだろうか。無敵帝国海軍の強さの秘密はここにこそありと感じたものだ。

杉山教官が予科生徒の方に移られた後、木村教官が五分隊の分隊監事になられた。二号は、やはり木村教官が分隊監事の一八分隊に配属されたが、はからずも二号の先任を命じられた。中学校の不良がどうしてだと思う間もなく、先任は度々屋上に来いと呼ばれて三六期からの制裁を受けた。また、分隊でもよく温習室の外に呼ばれてぶんなぐられた。八月十五日の終戦は、白衣を着てベッドの上で終戦の詔勅を聞き、病気療養中の者はみんなより一足先に帰郷した。

海軍から帰省した戦後

大阪商大予科と和歌山大学電気に編入が決まってどちらにしようかと迷っている頃、田舎の駅長をしていた父が、満鉄、朝鉄から数万の復員者を抱えた鉄道省の大リストラにあって首になり、小生の進学どころではなく、人生の苦闘がここから始まった。

父の関係で、後に大日本ハムの会長をやられた、当時鳥清ハムの会長であった辻本信千代さんの県会議員選挙の応援に参加したことから、「米川君、田舎にいては駄目だよ。自分が今度横浜で貿易を始めるから手伝ってくれ」とのこと。渡りに船と同行して、辻本さんの親戚の南京町にある第二武田屋という肉屋さんに逗留した。ところが、いつまでたっても貿易の話はなく、遊んでいるわけには行かず、肉屋の手伝いをするハメになり、とうとう住み込みの丁稚小僧となった。よしこうなりゃ日本一の肉屋になってやるぞと腹を決めて、肉屋の仕事に精を出した。進んで横浜の屠殺場へ行き、田舎では鶏の一羽も絞められなかった自分が、豚や牛を延べ二〜三百頭も撲殺した。人間いざとなるとどんなことでもできるものだと思った。

ある時、休みの日一人でいたら、お得意の萬珍楼から豚を一匹料理してほしいとの依頼があった。誰もいないし「僕はできません」とは肉屋の店員としては言えず、「仕方がない、俺がやるか。どうせ豚だろう」と店の裏口へ行ったら、三〜四十キロはある大豚には驚いたが、今更止めるわけにも行かず、大鉈で眉間を狙って打ち込んだ一発が的を外れ、豚が大暴れしたのには肝をつぶして真っ青になった。助けてくれる者は誰もいない。勇気を出して何とか仕止めた時は、腰が抜けそうでフラフラだった。その萬珍楼の大将は、小錦関に似た大男でみんな大声で怒鳴られるので行きたがらない。そこで海軍精神よろしく「よし俺が行く」と、萬珍楼の担当となってしまった。そのうち、大将とも色々口を利くようになり親しくなった。ある時大将から、「今俺の店が一軒空いている。そこで肉屋やらないか。お金私出す」と持ちかけられた。いろいろ考えたが、天下の海軍生徒がいつまでも肉屋の小僧でもあるまいと思い、その武田屋で数年間修業を積んだ青年に声をかけたら二つ返事で応じてくれた。早速その空家の店に移り準備を始めようとしたが、具体的な指示が出ない。南京町の肉屋全員が猛反対、また武田屋さんでは待遇を倍にするから戻って来いと言われたが、ここが思案のしどころ、すっぱり止めることを覚悟した。今更田舎には帰れず、先日お会いできなかったがわざわざ武田屋まで小生を訪ねてくださった木村教官に相談をしようと、青年を連れて、教官が経営にタッチしておられたキャバレー「リドー」を訪ねた。綺麗なお姉さんたちが続々出勤してくるのを見て、いつか俺も客として堂々と来られるようになるぞと思った。そこへ教官が来られて、「じゃ辻堂に食品工場があるからひとまずそこへ」と快諾を頂き、窮地を救ってもらった。その年の暮れ、横浜上大岡のパン工場に移して頂いた。

その当時、伝え聞くところによると、我が分隊監事の杉山教官もそして甲板士官の石川教官も、更に五分隊伍長の杉山さんと坂本さんも恩賜の短剣を貰った方達が夫々東大へ進学されたと聞いて、やはり学問を修めなければと思った。横浜の黄金町に関東学院の経専の夜学ができたので夜通学させてもらうことにして、その代わり真夜中のパンの仕込みから早朝の製造、そして運搬と何でもやった。公務員試験のハシリの税務特別試験を受けて、卒業と同時に東京に出て品川税務署に勤め、夜は中央大学商学部三年に編入し星友会という研究室に入った。海経の生徒なら誰でもできれば一高・東大を狙うだろうが、已むなく私学の夜学というハンディを克服するには、誰しもが受ける国家試験(自分としては公認会計士試験)に挑戦するしかないと思って、大学を卒業後カヤバ工業に入社し、その年に二次、そして三年後に三次試験に合格して、四年で会社を辞めて独立した。

東京に出てから三号の仲間とボツボツ連絡が取れ、浴恩会のスエヒロであった初めての大会にも十数人で出席したことがあった。木村教官から「三六期は戦後いち早く全国組織ができたが、三七期はわずか一年足らずで、しかも五百名、むつかしいのかね」と言われて悔しい思いをしていた。昭和三十六年暮のこと、銀座で桜井が経営していた喫茶店「ロア」にたまたま寄ったところ、二部の由良と日下に紹介され、一杯やろうと宴会になった。飲む程に意気上がり三七期の消息など話し合ううち、関東で二〜三十名、そして二部は関西でそれ位は集められるとのこと、それらを糾合して全国組織を作ろうということになり、その後三七期の皆さんの協力を得て、第一回大会を三七期にちなんで昭和三十七年三月十七日に料亭武蔵野で開催することができた。更にその後、皆さんの協力と日下の献身的な努力によって会の結束が固められ、浴恩会の中でも注目されるまでに発展した。

ところが、僅か数カ月の三八期も、そして予科の三九期も立派に全国組織を結成されていることを知り、驚いた。如何に海軍の訓育が比類なく素晴らしいものであったかの証拠ではないかと思った。

三七期の総会の旅行が始まって犬山総会があった時、当時三歳の息子明之を連れて行き、その後小学校を卒業する前の年まで皆さんに大変お世話になった。「開成や東大なんか行くもんか」とふてくされたことがあり、それ以後一切進学のことは話さないことにしていたのだが、自分から開成、東大と進み、今、本田の技術研究所で嬉々として働いている。これも皆さんから受けた教化の賜と感謝している。

三七会結成当初から会のために尽力してくれた人々の中で多くの方が他界されたのが残念でならない。「いい奴ほど早く逝く」と言われるが、まさにその通り。桜井、由良、日下の三人に島崎、小森、稲葉、篠塚、宮本、日沖、山口、工藤、片山、西村等々数多くの優秀な友を失って、三七会もどうなるかと心配した人も多かったと思うのだが、新会長以下幹事の皆さん(水谷、佐藤、西尾、伊富貴、三田、寺井、福川、岩田、本田、立花、青木)によって組織的な再建がなされ、我々三七期の老後の心の拠り所を構築してくれたことは同慶に堪えない。今、浴恩会最後の文集の編集が行なわれており、近く刊行の日の目を見るはずである。これは、故日下幹事の永く念願してきたことであり、どうか立派な文集が完成されんことを祈る。

 

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