私と帝国海軍

                 D 今 村  俊 雄

 

私が海軍経理学校を志望したのは、大きく分けて二つの背景があったのではなかろうか。

第一は、幼少時代から夏の海に親しみ、漠然とした「海への憧れ」が芽生えていた。私の母親の生家は瀬戸内、播州赤穂の御崎海岸近くの小高い丘の一角にあった。夏休みともなると母親に伴われてその茅ぶきの屋根の古くて大きな母屋の離れの間で過ごすことが多かった。歩いて数分の人気のない砂浜が私の最も楽しい遊び場で、見様見真似でいつの間にか水泳ぎもできるようになっていた。「我は海の子白波の さわぐ磯辺の松原に::」私の好きな小学校唱歌である。素朴な「海のロマン」を感じる。

第二は、スマートな海軍が好きであったということである。昭和初期大阪湾沖で観艦式があり、偶々縁あって巡洋艦「那智」見学の機会に恵まれたのが、私の最初の海軍の印象である。年を経て私の中学生時代太平洋戦争が始まり、帝国海軍の華々しい活躍に若い血汐は燃えていた。その頃から、私の生まれ育った天理の町は海軍予科練の基礎訓練の大拠点となっており、海軍の日常生活の息吹が身近に実感されるようになっていた。その頃の夏の或る日、私の在籍する天理中学校に颯爽たる一人の若き海軍生徒が訪ねてきた。私どもが英語を習う村尾先生の息子で海軍経理学校生徒(三五期)村尾順平生徒である。進学名門校の一つである奈良県立郡山中学校の卒業、開県以来初めての海軍経理学校入校者である。その鮮烈な印象は、私の海軍進学への夢を一段と加速することとなった。奈良県では三六期木谷二平生徒、坪井経生徒、三七期は小泉昭、鎌田善弘、小原(旧姓足達)雅美、私の四名が続くこととなる。二浪途次の私は既に徴兵検査で甲種合格。陸軍奈良の三十八連隊入隊を目前にして長年の海軍への夢が果たされることになった。

さて、希望に満ちて入校した海軍経理学校。しかし、「見る」と「入って見る」では大違い。東京湾品川台場での日夜を分かたぬ猛訓練で、心身ともに一日一日を耐え抜くことが精一杯。スポーツ名門校天理中学校で五年在籍し寮生活を経験、体力には自信を持っていた私であったが、海軍経理学校三号生徒が新たに受ける猛訓練のレベルは正に想像を絶するものがあった。それでも、それから三百三十日その厳しい訓練の日々に耐え得たことは、何といっても「若さ」のお蔭であった。今顧みれば懐かしいことばかりであるが、再びそのような厳しい生活に耐えられるかどうか、極めて疑わしい。しかし、この短い人生の一齣が、その後の長い私の人生で有形無形の基礎となり役立ったことは否めないだろう。

空爆で廃墟と化した都市が徐々に復興してきた戦後六年有余、私自身は大阪、東京で修学の機会に恵まれ、新しい第二の人生を模索していた。

就職先として選んだのは、海外関連業務の金融を主たる業務とする東京銀行である。グローバル化した今日と違って、昭和二十七年当時、海外業務を主とする東京銀行は海軍、国内業務を主とする都市銀行は陸軍というのが私の印象であり、選択であった。

東京銀行は、戦前から長い伝統を持つ「横浜正金銀行」の実質的後継銀行として、貿易金融、海外金融業務を主たる業務としていた。そのような関係で、伝統的に自由闊達な行風であり、公私にわたり地位の上下という堅苦しい垣根はなかった。よく考えればスマートで自由で柔軟性に富んだ気風が一般的であり、住み心地がよく、やり甲斐のあるよい職場であった。日本的企業風土では、私的生活においても上司に職名をつけて敬意を表する風景がよく見られたが、私の日常職場では、余程例外的に正式な時以外「::さん」、「::君」(ミスター)と呼ぶのが一般的慣習であった。一寸キザで軽いようだが、何となく海軍と雰囲気が似ていたのかもしれない。

東京銀行では同僚、上司に海軍出身者が多く、やはり何となく海軍と体質が似ていたのかもしれない。三十一年間に及ぶ銀行生活の終わりごろ、頭取は二代十年にわたり海軍短現士官出身であったのも興味深いことである。

ニューヨークやソウル等で直接上司であった人々にも海軍士官出身者がいた。南太平洋で何回も海に沈み九死に一生を得た俗称「ショウサ」の海軍少佐、ハワイ、ミッドウェイで空母「赤城」に乗っていた海軍主計少佐という歴戦の勇士もいた。東京銀行になって入った人々にも、海軍兵学校出身の海軍大尉が二名、わが海軍経理学校出身では三五期の鵜飼敏哉生徒を頭に三九期まで仲よく各一名が在籍していた。

面白いことに「海軍出身」ということだけで、初対面の人でも旧知の如く親しくなることも多い。昭和五十二年、二度目のニューヨーク勤務の時、海軍記念日の夜は恒例のように海軍出身者が集う、総領事館地下借り切りで大声を張り上げての「軍歌演習」が行なわれた。当時のニューヨーク総領事が海軍短現士官出身で、その他海軍出身の商社現地法人の社長、社員、メーカー駐在、銀行員等々数十名の盛大な会となった。この会は日本に帰国してからも、海軍記念日の夜しばらく続くことになった。

年の経過と共になにかと「同期の会」が多くなった今日この頃であるが、長い人生の中でのわずか三百三十日の海軍の同期の会が、一番密度が高いのも不思議で興味深いことである。

今後も海軍の人々との付き合いが当分続きそうである。

 

 

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