海軍経理学校の記念碑

                 C 菊 地  善一郎

               

海軍経理学校の記念碑が、隅田川勝鬨橋の築地中央卸売市場側の川岸に建立されている。

この記念碑に海軍経理学校の鉄製門標を嵌め込んでもらったことがあった。その門標は、文部省大臣官房長室に保管されていたものである。三十年程前のことである。

昭和三十八年、小生は、文部省大臣官房統計課で法規係長をしていたが、一九六〇年以来安保闘争が激しくなり、昭和四十五年四月弘前大学学生課長として出向した。弘前大学には、赤軍派等が数十名いて目立っていたが、赤軍派と横浜国大の京浜安保のグループが合流して、連合赤軍を結成し、浅間山荘事件を起こした。弘前大学からも参加しようとした学生が数名いたが、軽井沢駅等で総員逮捕された。四十六年七月末愛妻に先立たれ、悲嘆に暮れたが、気力に欠くるなかりしかと自分に鞭打った。四十八年四月東北大学(母校)に広報調査課長として転勤した。その秋、広報の会議が仙台で開催された時、文部省官房長井内慶次郎先生(海軍短現出身)が出席され、会議終了後に、海軍経理学校の門標が官房長室にあることをお聞きしたのである。当時の文部省事務次官は村山松雄先生(海軍短現出身)であり、両先生には大変お世話になり、心から感謝している。早速門標を記念碑に嵌め込むようお願いしたのであった。なお、終戦後品川本校の施設に水産大学が入った際、海経の門標の扱いを所轄官庁の文部省に相談した結果、文部省官房長室に保管するようになったようである。

思えば、昭和十九年七月憧れの海経の入試があった時の試験官は、佐藤指導官だった。教官が「どうして海経を受験したか」と尋ねられた時、「経理学校には品があります」と答えた。すると佐藤教官は「品とは、上品の品か」と聞き直された。小生は「はい、そうであります」と答えたら、教官は「健康に気をつけて過ごすように」と言われたのを思い出す。

昭和十九年十月海経に中学同級の渡邊保と尽忠報国のため入校(四分隊)して以来、三五期生徒の猛訓練に耐え、無我夢中で過ごした半年は、我が青春の真っ盛りであった。昭和二十年初め兵庫県の垂水分校に疎開し、三月に三七期の我等を育てて下さった三五期生徒の卒業勇姿を見送った時は、涙が止まらなかった。今生の別れと思って一生懸命帽子を振ったことを思い出す。

昭和二十年四月、垂水分校で二号生徒となり、新入生三八期生徒を迎えた。二号時代も三号時代と同じ四分隊で、細越弘康と一緒だった。二号になった或る日、新分隊伍長忍足生徒が四分隊の二号達に、「大和魂」(鉄棒)ができる者がいるかと聞かれた時、誰も手を挙げなかった。咄嗟に小生は手を挙げた。鉄棒の上に腰掛け、ヒラリと回転したが、真っ逆様に落ち、下にいた岡井克也達に受け止められて助かった。正に血潮漲る十七歳の青年だった。ドイツが降伏した後も、七月は、激しくなった空襲の合間に、隊列を組み、淡路島を見ながら遊泳訓練をした。八月終戦の日を迎え、失意の中で、後整理をしてから故郷仙台に帰った。

 終戦後は、食糧不足で大変だった。光合成を人工化できないものかと農芸化学を志したこともあったが,マッカーサー司令部の援助で、食糧難も次第に緩和されて来た。

 当時のエピソードがある。吉田首相がマッカーサーに、日本の食糧難を救済するために、これだけの食糧援助がないと日本国民は餓死すると言って数量を示したそうである。後にマッカーサーが、吉田首相に「日本の統計は出鱈目である。示された数量の数分の一で間に合った」と話した。吉田首相は、「日本の統計が正確だったら、アメリカと戦争しなかったし、戦っても負けはしなかった」と答えたとのことである。行政管理庁統計基準局長後藤正夫先生(後に法務大臣)からお聞きした話である。

 戦時中アメリカが日本の暗号を解読するために統計を用いたと聞いている。統計は株価や円相場、景気動向の予測や推定にも利用されている。イギリス海軍が、戦略研究に用いたOR(オペレーションズリサーチ)は、今企業の発展のために重宝されている。統計やORのように問題解決のために必要とされる学問を数理科学と称する人もいる。

 一時アメリカを追い抜いた日本経済が、最近不況に喘いでいる。今日本にとって一番必要なことは、創造性の開発である。創造性の開発を教育するには、問題解決学習が効果的と言われる。問題解決には数理科学が必要である。地球温暖化防止等大規模の創造性開発には、もっと広い科学全般が必要となろう。

 創造性の開発を高めるには、その土台を広め、高めることが大切である。富士山より低いエベレスト山が世界一なのは、その土台となっているヒマラヤ高原が広く、高いためである。創造性の開発の土台となる層を厚く高くするには、家庭教育、学校教育、社会教育に期待したい。国家百年の大計は、教育にありと言われる次第である。

 昭和五十年代神戸大学学生部次長の時、明石海峡や淡路島を眺めて海経時代を思い出したものである。

 昭和六十年代青森大学事務局長の時、柴田昭朔や平井一郎の提案により、若生松博に依頼し、仙台のメトロポリタンホテルで三七会総会を開催した折、佐藤教官ご夫妻にお会いし歓談できたことが懐かしく回想される。

平成十年三月満七十歳で定年退職して以来、評論家、投資家として過ごしながら、世界平和を念じつつ、国の発展を希求し、更に海軍経理学校の記念碑が永く残るよう祈っている。

 

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