私のノース

                 B 堀 田  道 昭

             

私が故郷を離れた最初は、海軍経理学校入学であった。

私の故郷は、愛知県海部郡立田村という水郷である。父が四十、母が三十三歳のとき初めての子として生まれた私は、田舎教師の家庭にしては特別に可愛がられ、文字通り「お坊ちゃん」として幼少生活を過ごした。

私の母校津島中学(愛知県立第三中学)の当時の教育方針は、今から考えると、村夫子的な人物教育にあったように思われるが、私を可愛がってくれた河合茂校長は、進学率向上にもかなり熱心であった。そんな中で海経には優秀な先輩がボツボツ合格していた。私は、体格検査に全く自信がなかったので、迷った挙句、試しのような心算で受けてみることにした。案の定、試験官は私の前で立ち止まり、しきりに小首を傾げていた。しかし、どういう訳か合格してしまった。

一人息子として大切に育てた私を送り出す父母の気持ちは、想像に余りある。海経入学時最後の面会の機会に、横浜の親戚の家に宿泊、私に会いに来てくれた時の写真は懐かしい。その時の父の写真を引き伸ばして、亡き父の遺影として今も座敷の一角に亡き母と並べて飾っている。

かくして、私の人格形成に大きな影響を与えた海経の教育が始まった。お坊ちゃん村夫子からの脱皮である。厳しい毎日の訓練にはついてゆくのがやっと。とうとう終戦の前一カ月ぐらいは体調を崩して病室にいた。だが、当時中学では敵国語として授業もなかった英語が、海経受験科目にはあったことにも象徴される、世界的視野を持った士官の育成を目指した旧海軍の懐の深い教育(戦況急を告げる中、以前よりかなり変わっていたらしいが――)を短期間でも受けることができたことは、幸せであったと思う。「大馬鹿になれ」と言われた亡き石井指導官のお言葉が今も強く耳に残って。

終戦後、帰ってきた私を見る近所の元ガキ大将の眼はガラリと変わった。私自身も、曲がりなりにも海経の訓練に耐え得たことが不思議な自信となり、持ち帰った海経の制服に短剣を吊って、海経時代外出先などでお世話になった方の実家へ挨拶に行った時の私は、もはや昔の箱入り息子ではなかった。この体験が、その後の進学や就職に大きな影響を与えた。

第一銀行(のち第一勧銀→みずほ)に入って幾つかの支店長を経験したが、部下に対する訓示や取引先社長などとの話の中で、旧海軍の話を時々させてもらった。五分前の精神、出船の精神、負けじ魂など。取引先には同世代前後の方々も多く、たくさんの共鳴を得た。後で分かったことだが、当時の私の部下だったH次長は、私が海経時代かなり活躍したと思っていたらしく、それを聞いて誠に面映ゆい気持ちで否定したものだった。

さて、私は銀行時代、最初は長らく自宅から名古屋の支店に勤めていたが、両親が亡くなった後、転勤命令を受けて東京にやってきた。そこから、はからずも故郷のことは隣村に嫁いだ妹にその管理などを頼むことになり、今日に至っている。私をつき動かしたものは、海経も銀行の転勤命令も、公(国、会社)が私よりも優先すべきとの当時の価値観であった。

留守にした生家は、何回も大小の修理を行い、今でも行けば何とか生活はできるようになっているが、子供の成長過程で教育上の必要を感じ、現在の神奈川の自宅を購入、社宅(当時は横浜のマンションの一室)から移り住むようになって、今日までの二郷生活が始まった。その後は、年に何回か、先祖の墓参り、法事や亡き父が残した庭木の手入れなどに帰郷し、幼馴染みにも会ったりしている。生家に帰ると、私の幼き頃からの思い出のもの、亡き父母を偲ぶもの、子供の小さい頃の遊び道具などが、時を超えてそのまま残っており、来し方を顧みる機縁が一杯ある。縁尋の機妙も数多くある。そして、坊ちゃん育ちだった私にしては波瀾に満ちた私の人生の中で、いつもここという大事な時に私を支えてくれた父母や妹などの愛に改めて思いを致し、お蔭で現在があるとしみじみ思う。生家では私がやらなければならないこと、私しかできないことがあり、誠に充実した時間が流れる。

自分の未来を自分に引き寄せる鍵は自分のノース(磁石の針の方向)をみつけることにあると、ある人は書いていた。これは私のような新老人向けというより、もっと若い人たちへの言葉のようであったが、私のノースは故郷に向いていることは鮮明である。だが、そのことが私の未来をどう引き寄せることになるかとなると、限られた未来であり、健康などの制約も多く、この新老人には具体的な自信は全くない。ただ、こんなに深い充実した時間が流れているところはどこにもなく、可能な限り何時までも持ち続けたいと念願している。

 

 寄稿文目次へ戻る                         次ページへ