青春の岐路

                 B 浜 井  章 三

             

海軍経理学校での在学期間は、約十カ月の短いものでありましたが、その間に得た尊い教訓と厳しい体験は、戦後の私の人生にとって強い心の支えとなりました。その海軍経理学校に係わる二〜三の私事について記してみたいと思います。

一、海軍経理学校受験の動機

私は、体力に乏しく体操はV+Vで機械体操は尻上りがやっと、長距離駆け足はいつもビリ、という状態にありましたので、軍関係の学校には全く受験する意思はありませんでした。ところが、中学四年の時の担任の先生が、海軍兵学校で物理を教えておられる方(文官中佐相当)で、時勢を考え、どこか軍関係の学校を受験してはとの強いお勧めがあり、思い詰めた末、当時海経は一高にも匹敵する難関校であり、たとえ不合格になっても余り気にしなくても済むであろうとの不浄な気持ちで受験した次第であります。

二、入校前の感激

昭和十九年十月一日入校のために父と同伴で初めて上京しました。車中での私の心境は入校後の体力の不安が一杯で、父との会話は殆どなく、沈痛な長い旅でありました。

そのような思いの中で校門をくぐって何日目であったか定かではありませんが、大勢の父兄のいる控室に、突然「浜井はおらんか、浜井はおらんか」と呼ばれる一人の凛々しい海軍生徒の姿がありました。びっくり仰天、直立不動の姿勢で返事をしました。見知らぬ場所で見知らぬ海軍生徒から、個人的名指しで呼ばれようとは思いもよらず、唯、唖然とするばかりでした。そしてご自身を名乗られ、力強い励ましの言葉と、いろいろのアドバイスを頂いたものであります。その時の感激、嬉しさは今も忘れません。(父も同様であったと思いますが、その父も、その喜びを秘めたまま、原爆で亡くなりました。)荒海に漂う小船が助けの光明を得た思いでした。その方は三五期の一号生徒、鍋島秀之さんでありました。(同一学区内に住んでいた同郷の誼であったのでしょうか。)戦後鍋島さんには一度もお会いしておりませんが、この紙上を借りて厚くお礼申し上げます。

三、戦後の状況

昭和二十年八月二十二日、垂水を離れる時、家族が原爆に遭い所在不明であったため、取り敢えず大阪の伯母宅に寄泊し、その後母の健在が確認されたので、直ちに帰広しました(父、長男、長女死亡)。駅頭に立ちますと、旧市内は見渡す限り焦土と化し、三キロ離れた中央部の街は、すぐ目の前にある感じで、百貨店、銀行等の焼けビルのみがその中に点在する有様でした。我が家は爆心地から約一キロの地点にあり、当然焼失しておりました。(鍋島さんのお宅は爆心地から五〜六百メートルの所でしたから、恐らくご家族全滅ではなかったかと思います。)

その後、経済的事情もあり進学は断念し、昭和二十一年六月に地元三菱重工広島造船所に就職し、停年まで三十八年間勤め、更に第二の勤めとして、地元私立大学の事務局に約九年間在職しました。

十八歳という世間知らずの若輩が、いきなり戦後の大動乱の社会に放り出され、世情の空しさ、世の中の様々な矛盾、心の葛藤に悩まされましたが、その時々の心の支えとなったものは、海経で得た耐久力であり、又そこで学んだ自負であったと思います。

現在は家内と二人、能楽三昧の日々を過ごしております。

 

 

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