海経入校前史と入校後の思い出

                 B 佐 藤  順 一

 

私の出身中学、厚木中学は、創立の頃は神奈川県第三中学で、平成十四年が創立百周年という古い歴史をもつ。現在の厚木高校は有数の進学校だが、戦前の中学の頃は、県央ののどかな田園地帯に、「質實剛健」を校是とし、生徒は、白風呂敷に小倉服、素足に高下駄の出で立ちで、伸びやかな日常の生徒生活を送り、受験戦線では晩生(おくて)であった。

そのような母校から海経ヘ進んだ人には、三〇期の足立純夫先輩(御賜の短剣拝受者)、三四期の後藤 勤先輩がおられ、不肖私は母校史上三人目の海経生徒という光栄に浴したのではあるが、私が経校の門を叩くに至ったのには、実は、奇しき運命のいざないというか、紆余曲折があり、「人間万事塞翁が馬」の古事を痛切に共感している次第で、自分史を振り返るとき、どうしても、「海経入校前史」に触れずにはおられない。

   

私達の中学入学(昭十三)の前年に蘆溝橋事件で日中の戦乱が勃発、四年生の十二月に太平洋戦争開戦と、戦時色濃厚な時期の在学だったが、当時の私は、専ら静高文科受験を目指し、四修では力及ばず、五卒では二次試験に残りながら敗退して浪人(昭十八・三)失意の裡にも気持ちを取り直して都立六中補習科に入り、水沼靜一君(一一分隊)、故小森 明君(一分隊)と同じA組で猛勉。約半年が過ぎる頃には、相当の自信を得ることができたと思う。

そのような折も折(昭十九・一)、国民徴用令により平塚の海軍火薬廠に徴用。あと二カ月で静高受験に三たび挑戦という途は閉ざされた。総務部運搬工員としての雌伏は九カ月に及んだ。この間に、これではならじ、両親に中学を出させてもらったのに、運搬作業だけでのご奉公では残念と、上司の許可を得て海経を受験した。

生来鈍重で駆け足も遅かった私が難関を突破できたのは、体力検査に駆け足がなく、片手で縄に長時間ぶら下がる耐久力のテストのみで、これには火薬廠での二等運搬工員の労働が役立ったと思う。

かくて、海軍生徒の柄(がら)でもない私が、「カイケイリゴウカク」の電報を頂き、火薬廠の朝礼では、総務部長代理東島中佐から総務部全員に披露され、祝福され、感激の極みであった。

失意の時、雌伏の時、これを次への跳躍台とすることこそ大切と深く感じ入った次第である。

   

このような入校前史にまつわる入校後の思い出話を二つ挙げる。

@ 入校後初めての外出の日、私は、前記の東島中佐にご挨拶と報告をすべく、平塚の官舎を訪問した。中佐は、暫し閑談ののち「ご両親に会いに行ったらどうか」と、従兵にサイドカーの準備をさせ、ご自身は和服の上に海軍のマントを羽織られ、私を後ろの荷台に乗せ、郷里伊勢原の入口まで二十分間突っ走り送って下さった。思いもかけず「故郷に錦」の感激を味わせて頂いたのには、またまた深く感動した。(その折、わが町の大通りを行く私が、百人余りの水兵さんから個々の敬礼を受け、一躍、田舎町の評判となってしまい、両親を驚かせ、喜ばせたことは、会報八九号に掲載)

A 前述のような次第で、駆け足の遅い私が入校を許されたが、早速、わが三分隊の先輩、同僚に多大の迷惑をかけてしまうこととなる。十一月から始まった早朝駆け足で、国道を品川―田町―浜松町の往還。浜松町の折り返しから「歩度を伸ばせ」、次いで「早駆け」となると、落伍の連続。岩崎伍長補には、毎度付き添いと激励でお世話になった。食堂では、週番生徒の鉄拳が毎度数発。

 やがて、暮から正月にかけての約一週間、毎朝の甲板掃除を免除され、校庭で、一号の小川 淳生徒が特訓をして下さった。「上半身は反り返れ。ももを水平まで上げて大地を蹴れ。スーハー・スーハーでは肺が心臓をもみくちゃにする。四つ吸って四つ吐け」と。

 この三項目の教えが、私を生まれ変わらせた。次第に落伍がなくなり、垂水に移ってからは、消耗している友の銃をも担いで駆け足できるまでになった。「先天的に駄目」と思っていたのが、「後天的に好転」し、その後の万事への自信の源泉となったのである。

   

あの苛烈な戦局のもと、国民生活も極度に窮迫していた当時において、望み得る最高の教育と訓育を享受できた海経の生徒生活。そこで得た自信と誇りとは、敗戦による傷心帰郷の後も、進学の機会を与えられて、旧制東京高校、東大法学部への挑戦の原動力となり、卒業後は地方行政を志して自治省に入省、府県庁勤務、国土庁出向等四十年間にわたる公務生活のバックボーンとなり、戦後の半世紀を私なりに完全燃焼することができた思いである。

そしてまた、在校時は常に後列にいた私が、今こうして三七会の代表幹事を務めさせて頂いているのも、「人間万事::」の思いを深くしている今日この頃である。

 

 寄稿文目次へ戻る                         次ページへ