六年目は大事な節目の年でした(回想)

                  A 村 上  孝 次

 

私は、昭和三年三月二十三日、北海道北の炭鉱の町歌志内に生まれましたが、昭和八年八月私が五歳の時、父が突然炭坑内の事故で若くして亡くなり、一家六人(母、兄妹五人)は、祖父が勤務していた小樽に身を寄せました。

01期六歳、翌昭和九年。春、小樽の山の手小学校に入学しましたが、祖父の退職のため一学期で転校を余儀なくされ、夏休みに本籍地故郷へ引き揚げることになり、北の果てから南四国愛媛県吉田町まで汽車、船、汽車、船と乗りかえ、それは長い旅でした。その間、東京で市内見物をしたり、新しいものずくめの十日間でした。二学期すぐに吉田小学校に転入して、やっと新生活が始まりました。

02期十二歳、昭和十五年。吉田小学校から六名が宇和島中学校に入学。兄妹私と三人で毎朝、一番船に乗船して通学。宇和島の船着場からは、一年生が先頭に並んで、途中渡し舟で近道をして学校へ。海が荒れた日は一番船だけで休航となり、宇和島から吉田まで約十キロを山を越えて同級生と歩いて帰ったものです。

秋から冬にかけては、途中ミカンをこっそり取って食べるのが楽しみだったことを思い出します。

03期十八歳、昭和二十一年。前年、終戦の年海軍経理学校から復員の秋、高等学校への転入試験に失敗し、翌二十一年九月に神戸経済大学予科に入学できました。同期七十六名は軍経験者が殆どで、戦前の名残か全寮生活で、阪急小林寮に入寮。寮歌、ストームが夜の日課で、先輩から指導を受け、これに反対ののろしを上げたり、当時は食糧難で、部屋の中でコンロで火をたき飯盒炊飯しながら、同室の友と明け方まで語り合ったものです。

04期二十四歳、昭和二十七年。予科大学時代六年間はアルバイト、寮での囲碁、マージャンに明け暮れて、やっとの思いで卒業することができましたが、就職が難しくなり始めた年で、第一志望の海運会社の入社試験に失敗し、残りが少なくなった募集企業の中から、見向きもされなかった小さな未上場の興亜海上運送梶i当年増資して資本金一億二千五百万円)に第一期生六名の一人として入社することができました。

安月給(初任給八千二百二十円)なので夜遊びはできず、専ら会社の前にあったパチンコ屋に仕事が終わり次第こもり切り、「ホタルの光」の音楽が流れるまで頑張り、結局は損をする日が多く、さびしく六甲寮に帰ったものでした。

05期三十歳、昭和三十三年。入社以来火災業務課で損害調査の仕事に従事、県内を自動車事故現場や修理工場へと追っかける日が多かったのですが、当年末十二月、会社は念願の月掛火災保険の発売の認可を得て、その支店責任者に任命され、昭和十九年の海経品川以来の東京出張となり、新保険推進のため説明会、セールスマン、募金人の採用、飛び込み募集の実践等多忙を極める日が始まりました。

新職を記念して、当時神戸元町駅ガード下の植木屋でミニサボテン十個を購入、これが私のサボテンマニアとなり、それからの引っ越しの度に大変な重荷となります。

06期三十六歳、昭和三十九年。東京オリンピック開催の年、初めての転勤で四国高松支店の課長に昇進。家族一同で高松港に到着しますと、支店の多くの人々に出迎えられ、初めてのことで感激しました。仕事は四国管内の出張が多く、また社宅は町の中心から歩いて約十分の所にあり、飲む、打つ(マージャン)に明け暮れましたが、故郷が近くなので、年に何度も帰省し、家族(母も)と良い思い出をつくりました。

07期四十二歳、昭和四十五年は大阪万国博覧会開催の年、営業体制強化のため地区本部制がしかれ、近畿地区本部席の本部長スタッフとして次長に昇進し、久し振りに関西地区に舞い戻ってきました。近畿内十部・支店を統括する仕事で、会合、研修、親睦等忙しい毎日、帰りは深夜に及ぶことが多く、大阪、神戸、西宮からタクシーで社宅のある箕面市まで飛ばして帰りました。近所の人からは、どんなお勤めですかと不思議がられました。

子供達の希望で、生後一カ月のマルチーズ犬を購入、その後十五年間一家が犬に振り回されることになりました。

08期四十八歳、昭和五十一年。本年度の異動で再び本社へ。総合企画室長に昇進し、常務会、取締役会にも列席するようになり、各部門とのコミュニケーション、また役員の間を走り回り、あわただしい一年が始まりました。

私事では、念願の自動車運転免許取得に訓練所通い、四十八歳で四十八過程の教習を受け、やっとのことで免許をもらい、一週間後に雪の中央自動車道に乗り入れ、信州蓼科山荘まで四苦八苦して辿り着いたことを思い出します。

09期五十四歳、昭和五十七年。企画室から財務、人事と部署が変わり、人事部長三年目に取締役に任命された年で、組合とは六十歳定年延長、特別社員制度の導入等大きな問題の交渉を重ね、人事制度の改革に取り組みました。

六月には長女の結婚式で、神田の山手教会で、初めてバージンロードを手をつないで歩くという、緊張した思い出があります。

10期六十歳、昭和六十三年。還暦を迎え、勤務の方は、監査役三年目で静かな一年に終わりましたが、私事では、大磯に移ってから家内が陶芸教室に通い「やきもの」づくりを始めたので、私も、第二の人生として北鎌倉にある別の陶芸教室に会社の友人と通うことになりました。先生は、有名な魯山人の愛弟子、ロクロのひき方、クスリのかけ方等基本から教わり、一年もたつと「やきもの」にのめりこみ、電動ロクロは勿論のこと、電気窯大小を山荘と家に設置して、家内と二人で作り続けた結果、家の中、庭に、山に「がらくた」が並びました。

11期六十六歳、平成六年、転勤に明け暮れた私にとって、どこに安住の地を求めるか迷っておりましたが、子供達の住居を考えると東京付近だと決め、日野市のマンションに応募、一番広い五DKに当選しましたが、マンション生活は落ち着かず、近辺を探し回り、大磯の地に居を定めることにしました。海に近いテラスハウスに入居しましたが満足できず、売り出しに出た山の手の団地に一目ぼれ、現住所に決めました。

やっと本年五月に新居が完成し、入居しましたが、その後隣組には柔道家の山下泰裕さん、作家の村上春樹さんが続いて入居された所で、山側にある緑豊かな静かな住宅街で、散歩される方が多いところです。

12期七十二歳、平成十二年。損保業界も再編成の年に入り、私のいた会社も日本火災との合併が決まり、資本金九百十二億円の大会社に変わり、私の旧会社顧問生活も最後の年となりました。

また、先祖伝来の四国の故郷の土地を処分することになり、兄と私で売却交渉に当たり、無事売却することができましたが、先祖が江戸時代仙台の伊達家の分家となった吉田藩の家来の一人でしたので、静かな武家屋敷の一隅にあり、また私にとって思い出深い土地なので名残惜しい思いがします。

ここに七十二年続いてきた本籍地を大磯の現住所に移し、第二の故郷が誕生しました。これで、私の六年目の節目が終止符を打つのでしょうか。

 

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