六十年の回想

                  A 藤 陵  嚴 達

 

出来の悪い人間であるが、七十七年を生きてしまった。過去に拘らない積もりでいたが、この先はもう長くはないと思い、回想を記したいと思う。

昭和十八年三月、私は、日大三中を卒業の前に両親の出身地である九州の高等学校を受験した。受験勉強を全くしていなかったので、結果は見事落第であった。初めて受験に目覚めた四月、私は考え方研究社に入門した。ここで習ったのは、塾長藤森良夫先生の「鈍物化して秀才となる」の言葉であった。この考え方に共鳴し、考え方の方式で数学の力はめきめき上がり、秋には試験練習の成績も上位を占めるようになった。

その頃、映画「海軍」が上映された。私はこの映画を見て海軍を知った。そして、岩田豊雄著「海軍」を一気に読み耽った。文中に「断じて行へば、鬼神も亦避く!」とあった。よい言葉と思い、早速座右の銘とした。また、「斃れて後已む」の言葉を「斃れて已まず」と読み替えて、これも座右の銘とした。

秋を過ぎ、翌年の新年まで、受験勉強は順風満帆で一流高等学校は手中に落ちたと思ったが、体に異変を感じた。それは試験問題の三行目までを読むと、最初の一行目に何が書いてあるか分からないことに気付いた。父にも相談し、近所の眼科に診てもらったら強度の眼精疲労とのことであった。「斃れて已まず」と読み替えた座右の銘は、行き過ぎであったと後悔した。試験練習の成績もずるずる降下し、二月には受験に対する自信が無くなった。塾長の藤森先生に受験高校のランク下げ、都落ちを申し出たら激怒され、口も利いてもらえなくなった。破門である。二度目の高校受験も失敗に終わった。

三月になり、海軍生徒採用試験のあることを知った。昨年の夏、兵学校の夏季休暇で帰省した従兄弟の二種軍装の写真を思い出した。父母の許可を取り、中学の恩師に高校受験の失敗と、海軍受験の意思を報告した。恩師は「君は実力があるんだから、頑張りなさい。先ず眼を治すことだね」と諭された。これから私の生活が変わった。奥多摩の山をハイキングし、遠くを眺めることで視力を養うことに努めた。時には要塞地帯の所もあった。また朝四時に品川の家を出発し、徒歩で明治神宮と東郷神社を参拝し、八時頃帰ることも屡あった。

五月に海軍経理学校の品川分校で身体検査を受けた。もう視力も十分回復していると思ったが、識色力異常で引っ掛かった。色盲検査でひらがなの「た」と「な」の識別ができなかったのである。もう駄目かなと思ったが、試験官が、休息の後の再検査を許可してくれ、再検査で異常なしとの判定が出て、ホットした。

七月に、同じ海経品川分校で学術試験が行われた。試験場では、大きく立派な温習机に一人一人、間隔をおいてゆったり腰掛けられ、寛いだ雰囲気であった。試験官は、暑ければ上半身裸でもよいと言われた。第二日目の試験は数学であった。一問を除き、三十分ほどで解けたが、その一問が解けず、残り時間も五分となってしまった時、腹に巻いていた東郷元帥の必勝御守りに手を当てた途端、解くことができ、難無きを得た。

第四日までの学術試験を無事終え、翌日は口頭試問だった。入校後分かったが、試験官は三七期主任指導官の石井主計少佐であった。「何故海軍を受けたのか」との問いに「軍人精神に憧れました」と答えたまではよかったが、「軍人精神とはどんなものか」との問いにはたと困り、窮してしまった。長い間だったと思う。試験官はにやにやしておられた。そして私の直立不動の姿勢を見て、「衣紋掛けのようだな」と言われた。口頭試問は終わった。次は軍装の寸法合わせであった。理事生が着せてくれて、「これでどうですか」と言う。私が「少し大きいようです」と答えると、「でも入ったらすぐ大きくなりますよ」と言った。私はほのかな甘い香りを感じた。

十月一日は入校の日であった。御楯橋を渡って新しく本校になった校門に入ると、軍帽に雨着姿の海軍生徒が大勢で私達を迎えてくれた。そして、私の姓名を笑顔で呼ばれた。私は、どうして自分の姓名を知っているのか不思議に思ったが、嬉しかった。二分隊に編入された。

十一月三日は初外出であった。京浜急行の青物横丁の駅で下車し、外食券食堂に立ち寄った。この七月に両親が静岡県の伊東町に移転した後、外食していた食堂である。食堂では海軍生徒の私を歓迎して、大角豆の赤飯のご馳走をしてくれた。十二月になると空襲が始まった。翌年の一月にはその数も増え、半ば過ぎには学校の移転の話が持ち上がった。下旬の日曜日に区域外外出が許され、伊東の両親のもとへ向かった。伊東の家での滞在は三十分位の短時間であったが積もる話もでき、楽しいひと時を過ごした。帰りの汽車が空襲に遭わずに無事帰校できるかとの危惧はあったが、何事もなくホッとした。

一月三十日、神戸市垂水への移動日である。一九〇〇品川駅発、照明のない、寒い車中で一夜を過ごし、三十一日一三〇〇垂水着。登りの山路を行軍し、新校舎に到着した。垂水校舎は神戸四中、神戸一商、神戸高等商業の三校を借用したもので山上にあり、神戸市を一望できたが、水の便は悪く、バスも手桶二杯という制限もあった。

三月十六日の夜、神戸大空襲があった。照明弾を投下し、次に焼夷弾を投下するので、神戸の街は火の海となって行くのを唯寝室から歯軋りしながら見ていた。三十日は一号生徒の卒業式。一週間前からの左腿膿瘍で腫れはひどいが参列を許された。涙のロングサインに感激した。三十一日に中村軍医大尉が麻酔なしの執刀、膿が一升出たと言われた。靴擦れの痕に黴菌が入ったとのことであった。入室生活二週間、この間に二号となり、一六分隊に編入された。

 五月三日から十日まで呉軍港で乗艦実習があり、磐手に配乗した。米軍の空襲があり、磐手の高角砲から打ち出す音はブリキ缶を叩くように響いた。空襲も終わり艦橋の船名録(艦名略号表)を見て唖然とした。帝国海軍の軍艦の名が殆ど消されていた。これは一大事と臍を噛んだ。

 八月十五日、一二〇〇、天皇陛下の玉音放送があるというので全員校庭に集合した。終戦の詔勅であった。夜には敵が紀伊、和歌山に上陸したとのことで防空壕に入った。発酵しかけた乾パンに酒気を感じながら味わった。望月生徒(平成十四年死亡)が「貴様と俺とは白虎隊のように、腹を刺し違えて死ぬのかな」と言った。私はこの言葉に礑と考え込んでしまった。死ぬ覚悟はできている積もりではあったが。八月二十二日復員の帰途についた。

 両親は無事だった。しかし、七十キロあったと思われる母の体重が三十五キロ位になり、栄養失調であった。配給は脱脂大豆が殆どで、食糧の穫れない温泉地、新しい土地という悪条件が重なっていた。私は食糧の確保に取り掛かった。九月には紺野海軍経理学校長から転入学の通達を頂いたが、先ず食糧の確保が一番と考えた。敗戦の原因の一つは科学で負けたと思った。理科系に進学も考えたが、二年への転入学はブランクもあり躊躇した。

 昭和二十一年の春になり、食糧も落ち着いたので進学を考えた。父は五代続いた医業を継がせたいと思っていたが、私は、子供の時から手術の返り血や夜中に起こされるのを見ていたので、医者になりたくないと思い、我が侭ではあったが試験問題も白紙で出した。そして、経理学校入校前に四カ月在籍した東京物理学校に一年生として再入学した。心は、専門学校卒で大学以上の実力を、と思って。光学の授業で、ガラスの美しさと光の神秘に魅せられた。卒業時に光学会社を希望したが不況でどこもなく、取り敢えず中学の教諭となった。偶々東京物理学校が東京理科大学に昇格することになったので、不本意ながら三年に編入し、二足の草鞋を履くことになった。教え子への愛着はあったが、光学への希望のため、卒業と同時に中学校を退職した。しかし、今でもかつての教え子たちとは文通や会うこともある。

 入社した会社は、八洲光学工業株式会社という顕微鏡会社であった。海軍造兵少将の山田幸五郎先生が顧問、海軍技術大佐で海軍光学実験部長、戦艦大和の十五メートル測距儀の設計、製造監督をされた青木小三郎氏が研究部長だった。しかし、この会社は入社一年で倒産した。レンズ設計は三年経たねば一人前と言われぬ時代で、第二会社に残ったがこれも二年で倒産した。

 三年たった時、「眼よりも明るいレンズ」、世界一の明るさを噂される「ズノー光学」に入社し、先輩から写真レンズ設計の秘技をチラリと見せてもらった。これを転機にズノーF1・1V型(未発売)ズノー一眼レフカメラ用レンズ群、8ミリカメラ用3倍ズームレンズF1・1、同F1・8等を設計し、レンズ設計の開眼を感じた。しかし、昭和三十六年、注文残を山と抱えながら資金繰りのため倒産した。六年七カ月の在職であった。

 この倒産の折、約十社から求人が来たが、部下を連れて行けるか、光学部門を創設できるかの条件を考え、(株)ヤシカを選んだ。ここでは、ヤシノン交換レンズ群、エレクトロ35用レンズ等を設計し、傘下の富岡光学で製造したが、安い価格でレンズ性能の上がるカドミウムを含むガラスを使用したため、公害問題で苦しんだ。ヤシカの倒産騒ぎで、部下の勤務場所も閉鎖されるので私は退職した。昭和四十九年十二月、オイルショックの最中であった。

 翌年(株)リコーに移ったが、今度は単身であった。リコーでは、一眼レフカメラ用の交換レンズの設計が主であった。和を大切にする創立者の精神が貫かれており、現在も繁栄している会社である。定年後一年半の顧問生活の末退社した。

昭和六十二年から(株)マークで仕事をした。リコーの顧問時に依頼され、周辺に行くほど曲率が異なる非球面の創成機を調べたところ、資本金二千三百万円の会社が一億三千万円の機械を購入したため、責任を感じたのである。私の仕事は非球面レンズの開発という新しい仕事になった。取得した特許も、その関係のものが多くなったが、三年前(平成十二年)退社直前に出願したDVDの特許は、私に譲渡してもらった。今後の活用を目下思案中である。

 

追記 明治四十五年の写真帖       

 私の家に生前父が求めた三百四十頁程の「日本写真帖」という一冊の本がある。日本全国、今では外国となった台湾、樺太、朝鮮、満洲を含め、数千枚の写真から二千余枚を選んで収録したもので、発行は東京市日本橋区の「ともゑ商会」、発行者は田山宗尭となっている。最近この写真帖をよく見て感銘した。大判写真機で撮影したもので、画角六十度の広角でも中心から最周辺まで実に鮮明に写っているのである。私はこのレンズがどんなものかを調べた。そのレンズはDagorF6・8ドイツ、ベルリンのGoerz社製で、ドイツ特許第74437号1892年(明治二十五年)6枚構成、画角68度の広角レンズであった。

 一方、十一歳年上の長姉は、叔父が満州から持ち帰ったTENAXという写真機を昭和十一年頃から使っていた。このカメラは名刺判(6×9p)のフィルムパックまたは乾板を使用する折り畳み式で、撮影時には三脚を使用し、後部の擦りガラス上でピント調節し、再びフィルムパックに入れ替えて撮影する面倒があった。装着のレンズ名はDogmarF4・5でこれもドイツ、ベルリンのGoerz社製でドイツ特許第258495号1912年(明治四十五年)4枚構成、画角56度であった。このレンズも中心から最周辺まで鮮明な写真が撮れた。

 中学三年の時、私は携帯に便利なカメラを買ってもらった。セミ判(4・5×6p)で折り畳み式、ファインダーを覗いて写真が写せる便利さがあった。私はカメラ店でレンズの明るさがF3・5でスタイルがドイツの人気カメラ、ウェルタペルレにそっくりのセミファーストを選んだ。カメラ店ではF4・5で、スタイルはよくないが信頼性のある別のカメラを推奨した。しかし、私はF3・5の明るさとスタイルの良さからセミファーストを購入し、その使い方の単行本まで購入した。数十本のフィルムを撮影し、印画を見た時に欠点に気がついた。それは撮影した人の顔が周辺に行くと流れることであった。また顔の位置と撮影距離によっても流れ方が違うことに気づいた。カメラの発売元、上野の皆川商会に相談したらレンズを交換してくれた。今度は顔の流れは無くなった。しかし、全体に映りが甘くなってしまった。使い方の単行本を見ると、このレンズは三枚構成で、その前玉を微少量回転して繰り出すことにより、距離調節していることが分かった。前述のTENAXのレンズが全体繰り出しにより、常時鮮鋭な映像を結ぶのと、レンズ設計の巧緻による違いを痛感し、自分で設計しなければと思った。

 昭和十八年春、高校受験で熊本に行った際、書店でレンズ設計の

専門書を購入した。「レンズの設計と測定」という本で具体的なレン

ズの解説はないが貴重な専門書であった。戦後一貫してレンズ設計

の道を貫いたが、若し中学三年の時に購入したカメラに問題がなか

ったなら、私の戦後はどう変わっていたかを思い出させられる。



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