私の戦中戦後

                 A 島   宏  一

 

このところ昔のことを思い出すことが多くなった。齢だなと痛感する。経理学校時代とその前後のことである。これは私の「戦中戦後」でもある。戦中の中学時代五年間、戦後の高校時代三年間のことについて、その思い出を綴ってみた。

三七期の文集への寄稿文として適当かどうかということは疑問であるが、読んでくれた誰かがどこか一カ所でも興味を持ってもらえればと、敢えて投稿することにした。尚、この記事がかねてから考えていた「自分史」の一部にでもなればと願うものである。

○中学時代について

私の中学時代は、和歌山県海草中学校の五年間である。この学校は和歌山市郊外の静かな田舎にあり、私の生家にも近かった。

「野球の海草」について

卒業後初対面の人から「出身はどちら?」という質問に「海草」ですと言うと、「野球の?」という答えが常であった。野球部は、私の在学中に連続二度の全国制覇を記録している。この偉業について、私なりに実感したことは次のことである。

全国制覇の要件として、その第一は選手の絶えざる猛練習ということは言うまでもないことであるが、このこと以外に、次の三つがその前提であることが具体的な思い出である。一、野球をこよなく愛した校長先生(宮崎先生)の情熱とリーダーシップ、二、後援会の強力な組織と経済支援(後援会長は町の経済人、酒造会社社長の島村さんだった)。三、レベルの高い技術を持った監督。野球部長は長谷川信義先生(明大の名選手であり、私たちの公民の先生でもあった)。

名選手として活躍した学友には、有名であった嶋投手を筆頭に、古角、竹尻、加茂兄弟、そして真田投手が思い出される。球児としてピチピチの野球少年の姿が今蘇ってくる。シーズンともなれば、構内の記念会館を宿舎として合宿訓練をするのが恒例であった。深紅の優勝旗は、後述のプールサイドにあった貴賓室に保存されていて、いつでもこれを見ることができた。戦後昭和二十一年に再開された全国大会に返還するまで、長期間校内に保管されていたことになる。

水泳について

当時の母校水泳部は、その揺籃期であった。入学の前年、当時としては立派な公認の二十五米プールが完成したばかりであった。その頃の和歌山は、中学水泳界では全国的なレベルであった。伊都中学の村山、妙中の両君は有名であった。紀ノ川の河童たちであった小学校の同級生が何人か、発足したばかりの水泳部に入部した。私は、この水泳部で二年間に亘りキャプテンを務めた。水泳部部長は早稲田で活躍された先生で、毎年夏休みになると、その後輩の方が指導に来校される習慣であった。仲間には戦後有名となった橋爪四郎君が、後輩として活躍してくれた。このクラスの連中が、戦後日大水泳部のスイマーとして大活躍することになる。短距離の坂口君、背泳の杉村君等が記憶されている。

戦争の足音

前記のように徒歩で二キロの所に学校があったが、毎朝村の仲間がグループで通学することになっていた。あの日の朝、上級生が「エライコトニナッタゾ。日本ガ米国ト戦争ヲ始メタンダ!」と日米開戦を教えてくれた。その後、田舎の学舎では戦争の影響は大したこともなく過ぎていったが、次のようなことが戦争の足音であった。○軍事教練の時間が多くなり、その教官の態度が大きくなった。○定期的に夜間行軍が実施されるようになった。○農作業が教科の中に組み入れられ、百姓をする時間が増えた。○冬季寒稽古(剣道)の時間が多くなった。この外については、従来通り普通の教科が続けられたようだ。 

英語の先生に藤村隆という方がおられた。広島文理大を卒業したばかりの若々しい教師であった。英語の授業が大変楽しかった。

先生はアメリカ文学の研究者で、特に詩人であるホイットマンを愛されていた。その傑作とされる「草の葉」について話をされたことは特に印象的であった。このことは、田舎の中学生にとって相当なカルチャーショック(都会的な教養とでもいうのか)を与えたようだ。この先生には公私に亘り特に親しくしてもらった。

○戦後・高知高校での三年間

戦後、故郷和歌山に帰った。人並みに為すすべのない毎日であった。将来何をするかということについて悩んだ記憶はない。親父は元気であったので、一緒に百姓でもするかと手伝いを始めた。向学心は余りなかったが、取り敢えず上級学校に行った方がよいという単純な考えから、高知高校を受験した。何故遠隔の高知であったのか思い出せないが、高知なら合格するだろうということだったのか。

高知は戦災により校舎はバラックの仮屋であった。幸い「南溟寮」は残っていたので、三年間はこの寮の住人となった。当時寮で最も幅を利かせていたのが「炊事部」の連中であった。食糧を確保するのが彼らの仕事であった。主として県庁の先輩を頼って増配を受けることがその主任務であった。お蔭で餓死することもなく三年間を過ごすことができた。三七期の同期生では尾木君と沢本君がいた。尾木君は高知出身で、生家のある安芸町にも案内してもらい親しく付き合うことができた。沢本君は在学中に寮で服毒自殺を遂げて、校内で大きな騒ぎとなった。

南海大地震について

入校早々の年末であったが、有名な南海大地震に見舞われた。このことについては最近刊行された宮尾登美子氏著「仁淀川」に詳しく書かれているので、思い出すことができる。初めての期末試験の最中で早朝のことであった。試験は中止となり冬期休暇に入った。数日後再開された船便で帰阪した。

学校生活について

何分南国の田舎でもあったので、お蔭で食糧事情はまあまあであった。シーズンともなれば水泳部の生活が再開された。高知城下の女学校のプールを借りての練習であった。京都で行われるインターハイに向けての気楽な毎日であった。戦前の旧制高校の雰囲気は多分に残っており、経校時代とは誠に対照的な「自由」を謳歌する生活であった。毎年クラス対抗のボートレースが鏡川で行われたが、カッターの経験が生きることとなった。

ドイツ語について

クラスは、ドイツ語を主とする「文乙」であった。何故ドイツ語を選択したのか憶えていない。熱心にドイツ語を勉強した記憶もない。従って、「もの」にはならなかった。よく卒業させてくれたものだと今でも気になる。そのため大学は英語で受験する羽目になった。ただ、外書講読のテキストが一年生の時はシュトルムの「みづうみ」、三年生の時はゲーテの「ファウスト」であった。ファウストは、岩波文庫の訳本と辞書を片手にして難解な詩を苦労して読んだことを憶えている。お蔭で、その後「ドイツ」についての関心と興味は人並み以上であった。

 

高知高校の縁でその後大変親しくしてくれた方々について、私の交遊録(抄)としてその思い出を綴ってみたい。

橋本 恕君

南溟寮で三年間の付き合いである。

彼は商船学校からの転校で海軍の縁で親しくなった。初対面の時の印象は忘れることができない。「貴様、広島の原爆のこと知っているか?俺は現場を見てきたが、これは大変なことになる」と言った。寮では黙々と勉学に励んでいた姿も忘れられない。当時松山高校とラグビーの定期戦があり、ある年松山に遠征した。その時の応援団長として活躍したことの記憶が鮮明である(その時の勝負結果については憶えていないが)。その後外務省で勤務し、各地の大使を勤めることになるが、シンガポールと北京で在勤中に二度に亘り現地で同窓会を開催し、旧交を温める機会があった。

森澤宏隆君

橋本君と同様、南溟寮で同じ釜の飯の仲間である。

彼は旅順高校から転校してきた。旅高の寮歌である「北帰行」を教えてもらった。この歌は、戦後一世を風靡する演歌となった。南溟寮の寮歌と同じように愛唱したものだ。橋本君同様よく勉強する模範的な高校生であり、教室でも大変お世話になった。その後彼の勤務地は東京と神戸であったので、度々旧交を温める機会に恵まれた。

二之宮信孝氏

同氏は、その後私が社会人として勤務した会社の上司である。

新入社員となって程なく氏との出会いがあった。「君は高知だそうだね。私は弘前だ。高知は「南溟寮」で弘前は「北溟寮」だ。何かの因縁だと思う。これから親しくしよう」というのがその出会いであった。そんなことから、その後親交を結ぶことになった。同氏は寮歌マニアであった。東京と大阪で開催される寮歌祭には殆ど参加されたようで、会う度にその話題となるのが常であった。

中井太喜志君

同君は兵学校七六期であった。

社会人になってから商売仲間としての付き合いがその出会いである。ある時「島君は高知の水泳部だったね」と挨拶されたのである。彼は四高の水泳部であった。毎年三高のプールで行われるインターハイで相見えた河童仲間でもあった。このことがきっかけになり、その後同君とは更に親交を深めることになった。

   

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