五百人目の三七期生徒

          Q 森   保  治

 

昭和十九年九月、希望と不安に駆られながら品川台場の海軍経理学校の門をくぐった。最初に入校前身体検査を受け、レントゲンの結果「右横隔挙上」と診断され、同僚六名と共に本館二階へ行くよう命じられた。程なく同僚六名は何れも東京出身者らしく、出迎えの家族に慰められながら引き揚げて行った。独りポツネンと廊下に立っているとき、左方向からM少佐が近づいて来られた。私の帽章を目に留め、「君は佐賀中学か」と聞かれ、「はい」と答えると、「俺も佐賀の伊万里商業出身のMだ」と名乗られ、「こんな所で何をしているのだ」と聞かれたので、今までの経過を話したら、「俺が調べてくるから一寸待て」と言われて部屋の中へ入って行かれた。暫くして現れたM少佐は「君は何でもないんだ。早く一八分隊の校舎へ行きなさい」と言われ、欣喜雀躍飛んでいった。その後も人生で数々の危機に遭遇したが、正に「地獄に仏」とはこの事を言うのではないかと今でも思っている。校舎では制服等が支給され分隊監事の小池教官の面接を受け、晴れの海軍経理学校生徒となった。

正に五百人目の三七期生徒の誕生である。しかしその後、M少佐と会う機会は一度もなかった。

結果的には生徒生活は一年足らずの短期間に過ぎなかったが、毎日厳しい訓育に明け暮れ、時には挫けそうになる自分を奮い立たせながら頑張り通してきた。その中で精神的にも肉体的にも見違えるように逞しくなり、その後の厳しい人生を生き抜いていける骨格が形成されたと思う。今でも思い出すのは「青春は顧みての微笑であれ」とか、「実力は経験×体力である」との教訓である。極めて現実主義、体験主義そして実証主義的な生き方の基礎が、この時期に築かれたのだと思う。戦後、食、住を求め荒廃した東京の町を彷徨った学生時代、未知の海外派遣で国際業務の開拓に当たった銀行時代、発展途上国を中心に市場の開拓に努めたトラック会社時代に、幾多の厳しい試練を何とか乗り切れたのも、海軍経理学校で培われた精神の賜と、深く感謝している。

時移り世も平成となってから、東京虎の門で開かれた海経一八分隊会で懐かしの旧友と再会できた。その時のスピーチで前記の入校時のエピソードを披露したところ、後日小池教官から葉書を頂戴した。「君が会ったのは前田孝充郎少佐であろう。彼は当時築地で繊維の研究という特命事項に従事しており、品川にはいなかった筈だとのこと。また同氏は昭和三十一年に亡くなられた」とお教え頂いた。人生にifということは許されないかも知れないが、私自身にとってあの時の前田少佐との出会いは極めてミステリアスであり、出会いがなければどういう人生を送っていたか、想像もできないのである。


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