最後の海軍経理学校生徒生活に想う       

P 矢 澤  郁 男

 

*はしがき

 私は、昭和十九年十月海軍経理学校品川校に入校し、三号生徒として猛訓練を受ける。この夏には既にサイパン島が陥落しており、爾来B29の襲来が激しくなり、翌二十年一月下旬に生徒隊全員特別仕立ての夜行列車で神戸の垂水校に移転する。四月から新三号生徒を迎え、二号生徒としての生活が八月十五日終戦の日まで続く。生徒館の生活規律は生徒の自治に任され、一号生徒が規律維持と生活指導に責任を持つが、指導に当たっては二号生徒を生徒館の活模範として、専ら三号生徒を厳しく躾教育をする。従って、同じ海軍生徒でも、生徒館では一号、二号、三号ではその生活態様は全く異なるのである。

 従って、一概に海軍生徒生活を想うと言っても、一号生徒を終えた者と二号生活まで経験した者と三号生活しか知らない者、はたまた教官と生徒だけの予科生徒生活しか経験しなかった者では、その感じ方はそれぞれに大きな違いがあろう。また、平和時、戦時、敗戦色濃厚となった時代といった軍を取り巻く環境の違いによっても、海軍生徒生活の内容に変化があったろうことは間違いないと思う。それにも拘らず、一貫して流れていただろう海軍生徒生活の素晴らしさがあるとすれば、それは何だったのだろうか。また、戦局の悪化によって齎された歪みといったものが無かっただろうか。最後の海軍経理学校二号生徒として経験した海軍生徒生活の一端を回顧してみたい。

*海軍経理学校三号生徒生活

 私が海軍経理学校に入校した頃、戦局はサイパン既に落ち、捷一号作戦即ち比島防衛作戦に移っていた。当時そのような情報は知り得べくも無く、時々東京上空にもB29が飛来し空襲警報が鳴るようになったことで、徒ならぬ戦況になってきている事を体感する程度であった。心なしか一号生徒の鉄拳制裁にも悲愴感を感じたものだ。毎夜行われる巡検用意後の鉄拳制裁も、初めの内こそ、「こん畜生!」と腹立たしく思ったが、日を重ねるに従い、それも一日の締め括りとして数発殴られることによって全てご破算に願い、すっきりと眠りに就くことができるようになっていった。しかし、その鉄拳制裁も分隊毎の教育鍛錬といった域を超えて、次第に懲罰懲戒といった面も加わり、戦局の悪化と共に生徒館に暗い影を落とすようになっていった。

*充実した学課教授陣と三号

 当時、学徒動員で娑婆の大学には殆ど学生はおらず、法律、経済学、会計学などの分野で東大、商大(現一橋大学)の有名教授が多く海軍経理学校の教官として来講していた。刑法の大家(当校では法学通論担当)東大の牧野英一教授が、「我が輩の知る限り、わが国の法学の伝統は常に東京帝国大学法学部に在った。それが、現在一時海軍経理学校に移った」といみじくも述べられた言葉が印象的だった。法律の牧野英一、我妻栄、吾妻光俊、経済の舞出長五郎、中山伊知郎、会計学の太田哲三といった大先生の謦咳に接し得たことだけでも幸せだったと思うが、ただ極めて残念だったのは、日常の訓育の激しさと一号生徒がいない気安さから居眠りが多くなり、おまけに折角の温習時間が生理現象の耐久訓練に費やされ、三号時代の学課は殆ど身に付かなかった。

*日曜外出の楽しみ

 入校して最初の頃、毎日曜日の外出は第一種軍装に昼食用のパンと中村屋の羊羹、最中を黒風呂敷に包んで颯爽と出かけたものだ。一歩校門を出てしまえば、一号も三号もない。娑婆の目からは何れも海軍経理学校の生徒さんである。時たま陸軍の下士官が敬礼をすっぽかすと、すかさず「待て!貴様、海軍生徒を知らぬか!」と日頃生徒館で怒鳴り付けられている意趣返しでもあるまいが、大見得を切ったものだ。まもなくB29の襲来も激しくなるにつれ、ゲートルを着用することになるが、日曜外出の楽しみは奪われることはなかった。しかし、「行きはよいよい帰りは怖い」で帰校時刻が迫るにつれ、心穏やかではない。校門に辿り着くまでに何が起こるか判らない。もし帰校時刻の五分前を切るようなことがあれば、大変な事になる。海軍軍人たるもの、軍艦の出港時刻に間に合わなければまさに切腹ものである。帰校時間厳守は特に厳しく躾けられる。  

今にして思えば、その頃、すなわち昭和十九年十二月末にはレイテ島は陥ち、翌年一月八日にはルソン島リンガエン湾に敵上陸、マニラ攻防戦が始まろうとする時期で、東京上空にも敵機襲来が激しくなりつつあった。そんな中で、生徒の正月帰郷休暇は取り止めになったのは当然だが、それによる生徒の士気阻喪を憂慮してかどうか、学校当局は柔道場に仮設舞台を急遽造り、尾上菊五郎、松本幸四郎、中村芝翫等を呼び、正月歌舞伎鑑賞という粋な計らいをしたものだ。田舎育ちの私など歌舞伎など見たことも聞いたこともなかったのに、あの時の出しものは、菅原伝授手習鑑で役者の佇いなど今だに瞼に浮かぶのは余程感動した証拠であろう。更に戦局逼迫のさなか、当局は海軍生徒教育を全うするため、一月下旬に神戸の垂水に生徒隊を移転させた。お陰で我々は終戦まで曲がりなりにも学業と訓育に励むことができ、日曜外出も許された。当時の状況を考えると、破格の配慮が窺われ、海軍経理学校の良き伝統が戦局悪化の重みに耐えながらも活かされ続けたことを有り難く思う。

*垂水の生活ー二号生徒時代―

 三月下旬、硫黄島も玉砕し愈々沖縄作戦に突入した頃、私達の一号生徒三五期を涙ながらに第一線に送り出し、編成替えもあって私は三七分隊の二号生徒となった。季節もあの寒くて暗い品川から、暖かくなった明るい日差しの垂水に変わり、心機一転、最後の二号生徒生活が始まった。

 垂水の校舎は山上に並立する県立神戸高商と商業学校の二つの校舎を急遽改造したもので、本来の海軍生徒生活をするには手狭で、品川時代とは随分勝手が違ったが、それでも生徒館の活模範たるべく、先頭に立って訓育に学科に励んだ。一号生徒に殴られることもなく、生理現象の我慢で温習時間を邪魔されることもなく、精神的にも肉体的にも伸び伸びと生徒生活に没頭できたように思う。それとは裏腹に、戦局はこの時期悪化の一路を辿り、本土決戦へひた走っていたようだ。もはや卒業しても乗り込む艦はない。陸戦の時間と農耕作業の時間が増えた。昼間はジャガイモづくりに松根油採取、夜間は陸戦の組戦闘である。将に本土決戦に備えてのゲリラ戦闘の準備と生活防衛である。

 八月十五日、暑い日だった。その日も朝から農耕作業に出ていた。突然、正午までに学校に戻り校庭に整列せよとの命令が下り、農耕道具を担ぎ駆け足で帰校、汗だくで二種軍装に着替え校庭に整列する。玉音放送というので謹聴するが、雑音でよく聞き取れない。どうやらポツダム宣言を受諾したらしい。緊張していた体からいっぺんに力が抜けた。その夜の生徒館はいつに無く騒々しかった。

 その後ある日、敵が大阪湾に上陸、こちらに向かって進撃中という情報が入ったらしく、陸戦隊用意のまま寝台に横たわり、出撃の命を待った。そのとき、数時間後には戦闘が始まると真剣に意識しながら、不思議と冷静で、走馬灯のごとく回る過去の思い出の中で、死の恐怖を全く感じなかった。僅か十カ月余りではあったが、海軍経理学校の生徒生活の中で鍛えられた教育と訓練が、切羽詰まった環境の中で発揮される力であったのかと思う。

*むすび

 入校から終戦まで僅か十カ月余りではあったが、その間、戦局が捷一号作戦から敗戦に至るという厳しい環境の中で、私は最後の海軍経理学校生徒として三号、二号の生徒生活を経験した。これまで述べてきたとおり、その生活模様は必ずしも晴れの日ばかりではなかった。いや寧ろ環境の悪化という厚い黒雲に覆われ、風の日嵐の日が多かったように思う。その嵐は何人かの仲間を吹き飛ばし、その強風は今だに何人かの仲間たちの聴覚を奪っている。しかし、海軍経理学校の良き伝統の光はその厚い黒雲を破って時として輝き続けたこともまた事実であった。当時の日本の一流教授の謦咳に接し、また、名人六代目菊五郎の至芸に触れるなんていうことは海軍経理学校ならではの事であろう。雨にもめげず、風にもめげず、私はこの間を全力で突っ走った。今私の手元に一冊の古びたノートがある。終戦後帰郷までの間に、分隊内でお互い別れの言葉を書き合ったものだ。時々取り出しては当時を回顧している。最後の海軍経理学校生徒としての経験が私に与えてくれた最大の贈り物は、なんといってもこの厳しくも苦しい時代を死に物狂いで生き抜いてきたという共感で結ばれた仲間たちがいるということである。

 

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