生徒生活中の最大の試練

                 P 永  原   實

             

昭和十九年九月五日、「カイケイリゴウカク」の、三年間の苦闘を一掃する思い一入の待望の朗報である。

我が家の大黒柱とも言うべき長兄(海機四六期、海軍大尉=伊一八五潜機関長)に続き、海軍主計科士官としての第一歩を踏み出すことになったのである。

十月一日、海経三七期として品川新校舎に入校。二週間の特別訓練により、日本海軍独特の海軍精神を叩き込まれる。

体力的にも精神的にも疲労困憊の極にあった十月二十四日夜の温習時間に分隊監事室に呼ばれ、夢想だにしなかった長兄(長兄は、幾度となく南方第一線で死線を突破して来た不死身の戦士を誇っていた)の戦死を告げられ愕然となり、不覚にも無念の涙を禁じ得なかったのである。更に悲報は続き、父の病没を知らされ、満十九歳になったばかりの私には、あまりにも厳しい試練であった。

次兄の戦死(十八年二月に二十一歳で戦死)により、私が後に続くのを期待していたであろう長兄には、何としても私の海軍生徒の姿を見てもらいたかったのに、長兄の勇姿今はなく、我が家の最後の男児となってしまった無念さは、何とも言うべき言葉がなかった。

私の海経入校出発に当たり、中風気味の不自由な体を起こし、あの気丈な父が、涙をにじませながら、「必ず元気になって、為助(次兄)の靖国神社合祀には参拝に上京し、お前にも面会に行くぞ」と私を激励してくれた父にも、海軍生徒の姿を見てもらいたかった。父の最後の顔は決して忘れることはできない。

苦労の連続の中に、私達三人の男児、就中長兄の海軍士官としての大成に全幅の信頼を寄せていたのに、家業の後継者となるべきだった次兄の戦死に続く大黒柱とも言うべき長兄の戦死が、父の病没を早めたものと思わざるを得ないのである。

この悲運の中にも、両親から長兄に継承された「金光教」の信仰のお蔭で、海経において、最高の武官(現役の教官)と文官(民間大学教授)教官にょる、真に行き届いた文武両道に亘る愛情あふれる薫陶を受け、更に優秀な上下級生徒と同期生に恵まれ、敗戦という厳しい混濁の世相にもまどわされることなく、戦争終結後五十七年間を生き抜く忍耐力と旺盛な精神力を、一カ年に満たぬ生徒生活中に修得させて頂き、日本海軍の伝統精神に触れることができたことに限りない喜びと誇りを感ずるものである。石井主任指導官から頂いた次の訓話が鮮やかに蘇ってくる。 

生徒生活は、 かえりみての微笑なり

スマートで 目先がきいて几帳面

負けじ魂  これぞ艦乗り

更に、海経生徒教育の行き届いた実例の一端に触れてみたいと思う。

私の長兄戦死の公報を入校後間もない私に伝える方法につき、親族会議の結果、父は、紺野校長宛文書(毛筆)で、私にお伝え頂きたい旨の申し出をした。校長は、文書を井上生徒隊監事、前田監事、松枝教官、田中第一七分隊監事に回覧の上、分隊監事から私に伝える決定がなされたもので、一新入生徒に対する温情溢れる措置に感動新たなものがあった。

この経緯は、父が紺野校長宛に書いた文書を分隊監事が大切に保管され、五十年ぶりに私に返送されてきて初めて判明したもので、如何に私達海経生徒が大切に育成されて来たのかを痛切に感ずるものであり、紺野校長始め全教官に心から改めてお礼を申し上げる次第である。          【平成十五年十一月二十三日永眠】

 

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