海経の思い出

                 N 西 島  良 成

      

一、入校式まで

○昭和十九年十月一日(日)雨

生憎この日は雨だった。〇八〇〇雨中を冒して憧れの海軍経理学校に出頭。早速身体検査。ツベルクリン、血沈、レントゲン等、主として結核の検査である。

 兄姉三人を二年前結核で亡くし、自分も肺浸潤で中学三年を休学した前歴を持つ身には、やっと入校まで辿り着いたのに、ここで  OUTになってはと、とても心配していたが、何ということか異常なしとのことで、無事採用予定者から採用者となることになった。今年から学徒動員が始まり、東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所の拡張整備に派遣された。主として土工だったので、体力もバテぎみとなっており、入校時の体格検査で万一の場合があってはと所長が心配し、動員作業従事証明書を出してくれたが、有り難くも不要になった。

学校は、今年から生徒増員で手狭になったため、築地から品川台場に移転新設されたもので、校舎は、木の香も新しく整備も良かったが、急造のためか運動場の黒い盛土は整地が遅れ、雨の中ベトベトだった。

○十月二日(月)・三日(火)

分隊監事(海経の先輩で、大体、主計少佐、大尉クラス)から日常の注意事項、例えば五分前のこと、室外ではいつも帽子を被る、階段は二段ずつ駆け上がる、などを事細かく指導された。

○十月四日(水)曇

 〇八〇〇入浴。写真撮影、そのあと被服交付、日常生活に必要な衣類のすべてを支給される。

待望の軍装となり、短剣を吊す。田舎出身の中学生が俄かに海軍軍人に変容する。馬子にも衣装だ。鏡を見ながら、ソワソワ、ニヤニヤしたものである。日用、学用品交付も 実に微に入り細にわたった配慮を感じ、ここでも流石海軍、海経だと感心した。

三年生が一号生徒で、二年生は二号生徒、一年生は三号生徒と世間と違った呼び方には少し戸惑った。この日は、とくに二号生徒が何くれとなく、優しく丁寧に手伝ってくれた。

参考に、@被服、物品交付一覧とA日用学用品を挙げてみよう。

@被服、物品一覧

軍衣袴 二、夏衣袴 二、略衣袴 二 、外套 一、軍帽及び前章 二、略帽 一、帽日覆 三、襦袢及び袴下 二、白シャツ 三、作業衣袴 二、脚絆 一、カラー 三、手袋 二、袴吊り 二、帯革 一、編上靴 二、半靴 二、運動靴 二、靴下 一八、短剣 一、剣帯 一、肩章 二、寝衣 二、雨衣 一、毛布 六、敷布 二、枕覆い

二、枕 一

軍衣袴――これが憧れのネイビーブルーの一種軍装で、上着は(短)ジャケットと言って腰までのものであった。ボタン代わりにホックで、少しでも前屈みになれば、バラバラとほどけ胸があいた。着こなしに慣れるのも訓練であった。襟章の錨のマークは、金(属)製ではなく、布(黄絹糸刺繍)だった。  

夏衣袴――白麻で上着は(短)ジャケット。来年の夏休みには、素敵な白の二種軍装(夏服)で腰に短剣を吊り――と思ったが、十九年から戦況も悪くなり、薄いグリーンに染められ、菜っ葉服のようで、がっかりした。

軍帽及び前章――前章は大きな錨をデザインしたもので、海軍三校は皆同じ。三号生徒は帽子の上部に入った針金がピンと張っていて、恰好も悪く直ぐ三号と分かった。帽子に恰好をつけるのにも暫く日数が必要だった。

袴吊り――帯革は短剣を吊るためズボン吊りが必要だった。なんとなく海軍の紳士的お洒落を感じた。

靴下――どうして十八足になったのか、どんな細かい計算がなされたのだろうか。軍衣袴とか白シャツ(カッターシャツ)等は制限無くクリーニングできた。その他の洗えるものは自分で洗濯した。

短剣――吊すのにどんな仕掛けがあるのか興味津々だった。革の輪っぱが長短二個帯革についており、吊すと恰好良く腰に収まるようになっていた。初めて短剣を着けて、お互いニンマリした。残念ながら、物資不足のため留め金には二号生徒のもののように桜のマークが付いておらず、ここでも戦況の厳しさを思い知らされた。

A日用、学用品一覧

硯箱 一、硯 一、筆 大、小各一、黒鉛筆 六、色鉛筆 一、黒インキ 一、赤インキ 一、千枚通し 一、小刀 一、曲尺(竹尺) 一、ノート 一〇、塵紙 半帖、ペン軸 二、靴墨 一、ペン 一〇、スリッパ 一、洗濯ストップ 一〇、歯ブラシ 一、磨き粉 一、状袋 一把、書簡箋 一、糊 一、白カタン糸 一、黒カタン糸  一、吸取紙 一、越中褌 二、洗濯石鹸 一、石鹸箱 一、顔石鹸 一、風呂敷 一、服ブラシ 一、洗濯袋 二、針 五、安全ピン 代用 四、洗濯ブラシ 一、靴ブラシ 一、タオル 二、ハンカチ 一、靴墨用ブラシ 一、靴墨ブラシ入れ袋 一、三角定規 一、洗濯石鹸箱 一、文鎮 一、コップ 一

どこかのコマーシャルではないが、裸で来て、すぐさま日常生活が送れるように、種類も数量も実に細かく計算され、早速故郷に出すための手紙一式と裁縫道具まで入っており、丁寧な支給に感心した。越中褌には面食らった。猿股から慣れるまで大分時間がかかった。

○十月五日(木)曇

井上生徒隊監事の訓話あり。

いよいよ分隊編成となる。私は、一五分隊に編入される。初教練。食事後、一号生徒の注意事項あり。とても逞しく大きく見えた。

分隊は、各学年生徒を分隊の数に分け、三学年を一つの分隊に纏めた構成になっており、自治生活となった。このため、各分隊では一号生徒の考えで、三号生徒の日常生活に大きな変化ができた。「修正」と言われた鉄拳の数もそれに比例した。一日の纏めは巡検(就寝前のチェック点検)後、毎夜行われた。そして締めくくりの最後には、「要するに貴様ら娑婆気満々――たるんどる」で「半歩開け、歯を食いしばれ――」とやるのである。

品物の名前には英語がふんだんに使われていた。衣類入れはチェスト、水モップ、ギヤ、ウオッシュタッブ等々。

○十月六日(金)、七日(土)、八日(日)

当時の手帳の鉛筆の字がかすれて読めないが、海軍体操を一時間して肋骨がバリバリいう程の殺人的なものだったこと、羊羹とか饅頭、最中との字がかすかに見える。お茶の時間があった。

○十月九日(月)晴

晴れの入校式。

全校生徒一種軍装に身を固め、整列。校長の訓示。緊張の一瞬。晴れの海軍生徒として経理学校に入る。

そしてその夜の巡検後、初めて「修正」という名の連帯責任なるものを知る。初夜にFとあるは鉄拳七発か。これから海軍生活は始まった。

二、駆け足と三号生徒(サンゴウ シェイト)

小便をする暇もない、そんな生活が暫く続いた。今までとは全く別世界のリズムで、頭と体はバラバラだった。一日中、ラッパと駆け足の毎日。そして五分前のスタンバイ。何時どこから「修正」がかかってくるか緊張し、まるで宮本武蔵的気分で神経はピリピリしていた。

ロボットのように、「立てッ」、「座れッ」、「集まれッ」、「カカレーッ:作業始め」、「ワカレーッ::解散」、「本を開け」、「勉強せー」、「止めー」、「寝ろー」::動作は全てラッパと、ピッという号笛、そして駆け足での移動。五分前の精神。頭は整理に大忙しである。

総員起こしのラッパで毛布を畳み、作業服に着替え、姓名申告をして飛び出すまでの時間は何秒だったか。畳んだ毛布の端は、スケールで測ったように、キチンと揃っていなければ「待てー」と、ひっくり返される。泣きの涙のやり直し。これで時間が超過するから、必然的に「修正」となる。いつも遅いのは大体決まっていて、一号生徒が横についているといった感じだった。

就寝のラッパは、たとえ巡検後に「修正」があろうが本当にホッとしたものだ。

ある日のことである。「待てーッ」、裂帛の気合いが後ろから響く。左手に教科書を包んだ黒い風呂敷包みを抱え、駆け足で廊下を曲がった途端であった。何か人影が感じられたが、時間に少し遅れて気が急いでいたのが悪かった。ヌッと、大きく頑丈そうな一号生徒が前に立ちふさがった。「貴様、どこを見ておるのかーッ」一遍に血が逆流した。「○○分隊、○○生徒であります」、「まだ名前は聞いとらん」、「ハッ!」、「貴様、何で呼ばれたのか分かっておるのかッ」、「欠礼いたしました」、「分かっとれば良し。もう一度名前を言ってみろ」、「○○分隊 ○○シェイト(生徒)であります」、「よう分からん。ここにはシェイトはおらん。セイトと言えんのか」、「ハッ!」。

自分では分からないが、熊本弁には相当癖があり、よそ者には難解な言葉も多いし、サシスセソの発音に特徴がある。「セ」が綺麗に発音できるまでには大分時間がかかり、いつまでも、三号シェイトで苦労した。それからは、例の通り。「半歩開けー、歯を食いしばれー」パン パーン、左右の頬から反対側の眼に劇痛が走り抜け、金色の星がツーと青空に飛んだ。

三、巡 検

課業が終わり、冬季日課表によれば、二一四〇巡検用意、二一五〇巡検となる。巡検用意でベッドに潜り込む。目をつむり今日の出来事を反省する。やがて当直の一号生徒による巡検の前触れがやってくる。ピッツ(ホイッスル::号笛、を鋭く吹く音)、「巡検、五分前」::、ピッツ、「巡検、五分前」::、巡検五分前から巡検までの五分間はいやに長かった。

第一分隊の出発が二一五〇だから、第十五分隊まではかなり時間がかかるのだが、五分前の前触れから五分の後の出発なのに、十分位かかった感じだった。ドン(甲板棒で廊下を突く音)、「じゅんけーん」::ドン、「じゅんけーん」::と、巡検が始まる。巡検五分前と巡検との知らせ方は、ニュアンスが違っていた。慌ててベッドに潜り込むのだから、時々は毛布が跳ねている時もあるが、甲板士官は丁寧に直してくれる。皆、寝たふりをして巡検が通り過ぎるのを待っていた。何人の一号生徒が甲板士官(当直監事?)についていたかはっきりしなかったが、先導の一号生徒の後にいた甲板士官(?)は、赤と白の縦縞の肩章を掛けていたように覚えているから、分からないように薄目を開けて見ていたのかもしれない。::先導の声が段々遠くに去ってゆく。

::一瞬の静寂。

これからが本番である。ゴソゴソと音がして、なにやら嫌な予感がしていると、「三号、起きろッ」と怒鳴り声が発せられる。何事ならん? と慌ててベッドから飛び降りる。六人の一号生徒は仁王様のように一列に並んで突っ立っている。第一声の伍長のだみ声は、昼間とは似てもつかないものだった。「聞けー、貴様らの今日の態度はなんだーッ」続いて伍長補も声を張り上げる。各一号生徒がこれに続く。

消灯して静かだった寝室は、電気がついて異様な雰囲気である。「貴様らは、全くたるんでいる。娑婆気満々の貴様らを見ていると、これからが思いやられる。只今から海軍魂をたたき込んでやる。一列に並べー、半歩開けー、歯を食いしばれー」パンパン、パンパン、パンパン、パンパン、 鉄拳の往復にドタドタと倒れる者もいる。正に青天の霹靂である。その時は恐ろしい所に来たものだ、と心から思ったものである。「修正」そう呼ばれた鉄拳の洗礼で身がシャキッとなった。その夜の日記にFとあるから、七発食ったのだが、誰からか一発余計に殴られたことになる。

「修正」は入校式の十月九日の夜を第一夜として、この夜から殆ど毎夜の行事となった。経理学校の授業は、巡検の後までビッシリ仕込まれていた。

四、東大教授 牧野英一先生

「大学の学生も今ではいない。日本の学問を引き継いでくれるのは、君たちだ」。熱のこもった、元気な張りのある講義だった。

昭和十八年十月二十一日、学徒出陣壮行会が、雨の神宮外苑競技場で行われた。そして、同年十二月一日第一回学徒が出陣した。昭和十九年十月二十五日、海軍神風特攻隊がレイテ沖で初めて米艦を攻撃した。

先生は、丸顔で小柄に見え健康そうな体つきで、一八七八年生まれだから、昭和十九年には六十六歳になっておられた。岐阜県出身というのに、講義はチャキチャキの江戸っ子のようなべらんめー調で、少し甲高い声は教室に良く徹り、後で分かったが、有名な東大教授の刑法学者であった。年端も行かない我々を、一人前の紳士として扱って頂いた。

法学通論の講義は、旧制高等学校を卒業した東大生を前にした素晴らしい講義そのものだった。「刑法の心は」、と講義を続けられる先生の熱意は、まだ幼い頭脳には十分理解できない部分もあったが、身にひしひしと伝わるものがあった。そして漢字に草書があるように、英語にも草書があるかと思うような、流暢なスペルで書かれた白墨の字に驚いた。驚きはそれだけでなく、一つの事項についても、いろんな意味合いからの表現を、英語では云々、仏語では云々、独語では云々と、事もなげに、何れも草書流で黒板に書かれ、何か別世界に入ったようだった。

大人の授業、海軍経理学校の凄さを感じた。どんな勉強をすればこんな博識を身につけることができるのかと驚きながらも、田舎出の新米生徒は、深厚な講義に改めて自分の置かれた境遇に感謝した。

授業はこの他、民法、経済、会計、論理等。教授は主として東大、一橋大から一流教授方が来ておられた。雰囲気としては、旧制高等学校の文科甲類の授業で、国語、数学等の普通学の間に、軍制等の講義があるといった感じで。実に猛烈なスケジュールであった。

参考 昭和十九年十月十八日から第一学年時間割

  1   2    3   4   5    6

月 軍制  語学   物理  軍制  数学   数学

火 経済  経済   国語  国語  法学通論 民法

水 論理  軍需品学 民法  民法  法学通論 法学通論

木 会計  会計   数学  数学  陸戦   運用

金 基本兵学 化学  化学  語学  軍需品学 物理

土 化学  歴史   経済  経済

――――― ・ ―――――

    西島君の寄稿文は、更に続きますが、紙面の都合で

   ここまでとし、爾余の部分は、基本ファイルに記録を

残します。              (編集部)

 

 寄稿文目次へ戻る                         次ページへ