昔はものを 思はざりけり

                 N 鈴 木  安 孝

             

昭和五十二年、故片山 潔生徒の尽力で編集された一五分隊の文集「若鮎」―海軍経理学校第十五分隊の思い出―に、私は「我が青春の海軍経理学校」と題して、「僅か一年足らずの海経生活が私の青春の全てであったような気がする。そんな海経時代とは何であったのかを時間的余裕ができたら徹底的に考えてみたい」といった趣旨のことを寄稿した。

あれから二十五年、今や時間的余裕はあり余るほどだが、今度は頭脳の退化が著しく、論理的とか体系的という言葉とは全く無縁になってしまった。海経最後の文集の締め切りが目前に迫ってきたが筆がさっぱり進まぬ。しかし、自分が栄光ある海経三七期に在籍していたという証しはどうしても残さねばとの思いは強く、老化した頭脳と手に鞭打ちながら、極めて非論理的、非体系的に筆の赴くまま懐かしい思い出を混ぜながら所感を述べることとした。

「私と海軍」

私は軍港呉で生まれ育った。周囲は海軍一色であり、海軍さん抜きでは幼少時代は語れない。街にあふれる水兵さん、祝祭日には大礼服を着飾った士官さん、呉工廠での天皇名代の皇族が出席される進水式、制服の副官を帯同して羽織袴で野球試合を観戦する呉鎮長官(当時子爵加藤隆義海軍中将)の姿等など、日常的に海軍に溶け込んでいた。軍港に面した国鉄呉線の窓が全部目隠しされ、戦艦大和が完成間近だったのも小学校高学年の頃である。中学二年生の時東京に転校し、その年太平洋戦争勃発。軍事教練と勤労動員の中学生時代を送り、敗戦決定的となった昭和十九年十月海経入校、そして二十年八月終戦を迎える。

明治の偉大な文化遺産と言われる帝国海軍の良さを知ったのは、専ら戦後サイレントネイビーの掟を破って数多く発表された元海軍軍人の著書や、「坂の上の雲」の司馬史観、米内、山本、井上各大将の伝記三部作、「軍艦長門の生涯」等の阿川史観によるものである。

それでは、私に決定的影響を及ぼした海軍とは何であったか。

それは、世にも不思議な、理不尽が理不尽でなくなる鉄拳制裁を伴う、一号生徒を中心とする分隊制度という完全な自治組織そのものであったと思う。

とにかく不思議な世界であったが、これが海軍の伝統として大事に受け継がれ、その中で鍛えられたということなのだろう。形而下的には私の海経生活とは、猛烈な鉄拳制裁を伴う一号生徒を中心とした分隊生活であったといえる。

或る外出日、「今日は思い切り娑婆気を出してよし」とのお達しにより、ぐうたら中学生の時覚えた流行歌「伊那の勘太郎」を気分よく歌った。その夜、「本日の外出で娑婆気満々のくだらん流行歌を歌った三号がいる」と全員制裁を受けた。理不尽が理不尽でなくなるのが一号の三号に対する鉄拳制裁であった。当時一番温厚といわれた高木教官が当直監事の夜を狙って実行された道場ストームでは、一晩で五十発以上はやられた記憶がある。

しかし、こうした制裁は私にとってはスカッとした気分の良いものであり、後味はよく、後に尾を引かぬ鍛え方で、これに勝るやり方はないと今でも思っている。それとても、根底に「一日も早く一人前の生徒にせねば」との使命感と一種の愛情があったから、受け入れられたのであろう。二号生徒になった時、同分隊の宝輪生徒から「貴様は怖い一号になるだろう」と言われた記憶があるが、私は間違いなく鉄拳制裁賛成派に回ったと思う。今も処世訓としている「五分前の精神」等はこれによって身にしみついたものと思っている。

今時、会社で「課員整列、半歩開け、歯を食いしばれ、猛省を促す」とやったらどんなことになるだろう。凶悪犯罪の増加する青少年の躾の問題また然りである。

「海軍と教育」

「三七会だより」に乗艦実習で敗戦間際の海軍が生徒に贅沢な教育をやった事を書いたが、基本学も贅沢なものであった。牧野英一博士の法学通論(刑法に非ず)の講義は最高だったと思う。侍立の石井主任指導官が新品の机と椅子の整えられた教室で、「帝大のようだ」と嬉しそうな顔をしておられた同教授の第一回目の講義、冒頭「お金は○○、屋敷は穂積、頭のいいのはこの牧野」と小柄な博士がご自分の頭を指された仕草が眼に浮かぶ。(○○はどうしても思い出せない)勿体ない話だが、当時の最高の講義と思われる授業もこれしか今頭に残っていない。三号だけの授業時間は、専ら睡眠時間に充当された。同分隊の故大嶋次雄生徒の「卒業すれば、恩賜もビリも少尉は少尉」の悟りに同調して勉学には力が入らなかった。因みに、大嶋生徒は剣道の達人で、戦後日本刀を抱いて時の自由党幹事長怪僧広川弘禅の用心棒をやっていた快男児であった。

他面、部内の文官教授の授業は面白味が少なかった。当時の歴史教科書を開くと、扉に

 命令 生徒ハ本書ニ依リ歴史ヲ修得スベシ

 発行年月日 昭和十九年七月一日

     海軍経理学校長 紺 野 逸 彌

とある。目次だけ拾ってみると、肇国、大化改新、建武中興、明治維新、大東亜戦争、である。なお、試験問題は「大日本は神国なり、につき所感如何」であった旨メモに残っている。 

しかし、海経では終戦の前日まで英語の授業は続き、ウオッシュタップ、ギヤー、スマートなど英語が何の抵抗もなく使われており、図書館に「資本論」が置いてあったのも海経である。

事の是非は別に論ずることとし、国家百年の大計である教育につき、戦後半世紀を経てやっと教育基本法の改正が論ぜられることになったようである。その中でなお「愛国心は不可で、国を愛する心とせよ」と不毛の議論がなされているのを聞いて、全く情けなくなる。日教組の罪は大きい。国家、民族を無視した東京裁判史観が払拭されるまで、まだ五十年くらいはかかりそうだ。

「最も日本の青年らしい生き方」

制限字数をかなりオーバーしたので、「私にとって一年間の海経生活は何であったのか」の課題について総括しなければならぬ。

唯、当時の歴史の流れの命ずるままに、何の邪念も欲もなく、純粋に先ず戦いの庭で恥ずかしくない初級士官たるべく、文武両道に励んだ一年間。理屈を超えてそれとしての自覚もないまま、帝国海軍という偉大な文化と伝統に包まれ、使命感に支えられた生活であり、「最も日本の青年らしい生き方をした一年間」であったと思う。

ここまで書いてきて、前述の「若鮎」で平岩昭徳生徒が海経生活の何たるかについて勝れた思考力で出された結論―一、すぐれてよく西洋を身につけた帝国海軍の魅力、二、海軍生徒は特権階級であったが、同時にそれに恥じないだけの献身の精神と強い義務感を抱き、献身に値する対象を把んでいた―を超えることができない事に気がついた。(平岩君、無断で貴兄の文をそのまま借用した事ご容赦ください。)

最後に本題と何の関連もないが一言付記しておきたい。

私の一年間の海軍生徒修業記録には、不思議に「天皇」の文字が一度も出てこない。文芸春秋七月号に発表された、昭和天皇の謝罪詔書草稿―憂心灼クガ如シ、朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ―は私にとって衝撃的だった。

これが公布されていたら、昭和史の一ページは大きく塗り替えられることになったのではないか、との筆者の言は全く同感である。

文字通り非論理的、且つ非体系的な文章となったが、標題の「昔はものを思はざりけり」は「昔を今になすよしもがな」と変えた方が良かったのかなと思っている。

 

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