海経と私―今だから話そう

                 K 本 田  親 克

                

私が海経時代に最も苦労したことを明かそう。それは、厳しかった訓練でも何でもない。今だから言えることだが、視力が弱いが故の大苦労であった。

私は生まれつきの弱視で、肉眼では〇・一がやっと。眼鏡をかけても殆ど矯正がきかず、〇・三か〇・四あたりがどうにか見える程度である。(四十年程前にコンタクトレンズを試用してみて、何と〇・八まで見えたときの嬉しさは格別だった。)

だんだんに見えなくなったのなら兎も角、生まれつきなのだから、自分の視力が他人より弱いと一向に気付かなかったのも当然。三歳のときに母に死なれ、以後祖母や叔母に育てられたのも関係ありそうだ。幸い小学校の低学年の頃は、どういう訳か教室の最前列中央に座っていたので黒板の大きな字は見えて、授業中も余り不自由しなかったようだ。それが高学年となると、身長順で後方に座らせられたので全く黒板の字が見えず、自分の視力が他人より弱いことを知るようになった。当時は、毎年の視力テストも満足になかったのではなかろうか。忘れもしない四年生の初め頃のことであるが、恥ずかしがりやの私は、担任の教師に見えない旨を申し出る勇気がなく、黒板に書かれた算術の計算テストの答え合わせではいつも殆ど〇点。教師の指の動きを見ながら自分で適当に作った問題だから、答えが違うのも当然。一方、謄写版の問題刷り込みテストなら満点というおかしな現象に、やがて教師も私の強度弱視を知った次第だった。

昭和十八年夏、三つ違いの兄(親史)が海経を受験することになった。私も、視力さえ合格すれば何とかなるかもと思い、受験と決めた。当時の鹿児島では、四肢五体完全な男子なら、軍人にならないのはそれこそ恥という気風が強かった。視力検査だけは怖かった。諸兄もご存知だろうが、視力表の上から並んだ片仮名文字「コナルカロフニレコ」を今も諳んじている程よく覚えたものだ。検査官が視力表のどこを指しても、パッと答えられるように覚えたのだった。

苦労がみのって、難関の視力検査も無事パス。学力試験は兄が全国トップで合格(三六期)、私も二十番台で合格したのだったが、兄弟同時入学が問題になったらしく、当時の経理学校萬袋副官から「体力をつけて(体重がやっと合格という痩せぎすだった)明年入学するように」との通知があった。(三六期として合格していたことについて、私は五十年間口を噤んできたのだが、三六期の平成六年会報で萬袋副官と岩下宏生徒の対談の中に表沙汰になってしまったので、敢えて触れた次第。)

明けて昭和十九年夏、再び海経受験。視力検査は難なくパス。学力試験は前年より成績が悪く百十番台で合格。

九月下旬上京。例の品川校舎の一角、雨降りの暗い室内で視力の再検査になった。今度はコナルカロフニレコではなく、丸い輪のどこが欠けているか、という代物だった。やっと〇・一しか見えず、苦しまぎれに、「初めての汽車の長旅で、鹿児島から東京まで一睡もできず、日中は景色を眺め続けてきたので、眼が疲れきっています」と弁明したところ、「そうだろう」と検査官も寛大に認めてくれて救われたのだった。一次にせよ、二次にせよ、眼鏡をつけての厳密な検査が行われていたら、私は、勿論、確実に不合格の筈だった。

このような経過を経て入校した後の私の海経生活には、冒頭に書いた通り、眼故の苦労が絶えなかった。次の各事例は、視力の強い諸兄からみたら、滑稽としか言いようのないことばかりだろう。

○温習時間――後ろから一号生徒の「背筋伸ばせェー」では、机の上の書物の字は見える筈もない。毎晩、無念無想眼を開いたまま座禅の境地だった。

○授業時間――最後列だったから、黒板の字は見えたことなし。全くの耳学問。

○軍歌演習――「手を伸ばせェー」だから、軍歌集の小さい字が見える筈もない。日曜日の外出には必ず軍歌集を持ち歩き、一生懸命歌詞を暗記したものだ。お蔭で、長い歌詞の軍歌を今に到るもよく覚えており、私の無けなしの特技にもなっている。

○手旗信号――当方からの送信はうまいものだが、先方のは見えたものではない。

○小銃の実弾射撃――たった一度あった。二十メートル位前方の標的に一発も的中せず、銃の方に支障があるのでは、ということで済んだ。

○上級生への欠礼――前から来る生徒の顔や襟章を判別できるのは、やっと二メートル位前だ。大体、上級生徒というものは、歩き方一つをみてもそれなりの貫禄が備わっているもので、私も、先方の顔まで確認できなくても分かる勘をもっていたつもりだったのだが、小柄でチョコチョコ歩く上級生徒には私の勘も通じず、同期生と思い込んでよく欠礼してしまった。とくに、名前は言えないが、三五期の○○生徒には何度も欠礼し、「何故貴様は俺に敬礼しないのか」と殴られたものだ。まさか、貫禄が感じられず、同期生と思った、という訳にもゆかず―――。

こうして書いてくると、まるで漫画的で―――。しかし、今だから言えることであり、このような苦労は覚悟の上で、海経に何としても入りたかった私の気持ちは汲み取ってほしい。

 

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