思い出すことども

                 K 小 林  茂 夫

                

一、あの冬の寒さ

三号時代(一二分隊)の思い出として直ぐに思い浮かぶのは、あの冬は滅法寒かったということである。後で聞いたところによると昭和二十年の冬は記録的な寒さだったそうで、何が辛いといってあの寒さに勝るものはなかった。私は、群馬県の出身で上州名物の空っ風に鍛えられ、寒さにはかなり強いと思っていたが、この自信も綺麗に吹っ飛んでしまった。爾来、到頭本物の寒がり屋になり下がってしまって今に至っている。

垂水に移ってからのある朝方、窓を拭いていた時急に東風が吹き始めたことがあった。空気が生暖かく感じられた時の嬉しさは格別のものだった。春って良いなあと暫し甘美な思いに胸を膨らませたことを思い出す。

二、数学嫌い

訓練はまあついて行けた方だと思うが、二号の時(二八分隊)数学がテンデ分からなくなってしまった。もともと大の苦手で出来の悪い学科であったために、微分などに入るとますます嫌いになり、挙句見事に補習授業生に当選してしまった。温習時間に入ると分隊全員を前にして、伍長に大声で補習に行く旨を申告するのは矢張り体裁が悪くガックリ来たが、なに、教室へ行ってみると随分と大勢の仲間が浮かぬ顔をして参加しているので安心した。こういう連中は戦後進学した際皆文系に行った筈だが、中には理系に行った者がいたのには驚いた。折角の補習もさっぱり分からずますます数学嫌いに磨きがかかり、お蔭でその後の進学入試の際数学で大変苦労した。

その代わりドイツ語は役立った。旧制高校で第一外国語にドイツ語を選んだのは、矢張り敗戦の口惜しさがあり、時流に乗った英語に逆らって俺は敢えてドイツ語で行くぜと意気がったことにもよるが、少しでも齧っているから楽だろうという料簡もあった。あまり褒められたものではないが、でもこの齧りが思ったより以上の助けになった。

後年、当時の仲間と会う度に数学補習の話を持ち出すのだが、誰一人「俺もそうだった」という者はなく、甚だバツの悪い思いをした。大勢いたような気がするが、実は少数の劣等生ばかりだったに違いない。

三、音楽談義

入校の頃、私の趣味はクラシック音楽だった。だから、当時のクラブへ行ってレコードを聴くのが何よりの楽しみだった。

若々しく兄貴のような感じのドイツ語教官都築さんが話せる方で、授業中に屡ドイツリードや民謡を聴かせて下さった。その中にウーラント作詞、ジルヒャー作曲の「戦友」があった。日本の「戦友」に似た歌詞で、同じように哀調を帯びたこの曲を一所懸命に覚えた。戦後、「眼下の敵」というUボートと米駆逐艦との死闘を描いた傑作映画があった。そのラストシーンに独軍戦死者水葬礼の場面があったが、バックにこの曲が流れ、はしなくも当時の授業の光景を思い出した。春先の明るい教室だった。

二号になってから今は亡き尾藤秀郎さんと妙にウマが合って、日曜日にはいつも連れ立って外出したものだった。或る日神戸の長田でレコード屋が店を開いていたのを見つけた。二回ほど行った記憶がある。そこで数枚のレコードを買った。当時一度も聴く機会はなくそのまま親戚に預かってもらった。それにしても不思議に思うのは、苛烈な戦争末期にあってもなお店が開かれていたことである。皆頑張っていたんだなあと思う。また、どうして私がレコードを買うお金を持っていたのか分からない。

一号生徒の片山龍夫さんがクラシックがお好きで、時々お話を承ったことを思い出す。一号生徒と二号の間柄の会話だから歓談という訳には行かず、時間も前後併せて三十分にも満たないものだったと思うが、そこだけポッカリ拡がった青空のような印象がある。

四、上には上がいる 

こいつにはとてもじゃないがかなわない、という思いをさせる人を誰しも持っていると思う。私にも数人いる。その最初の人物に二号の時お目にかかった。野秋利夫さんである。

どうしてそう思うのか、いまだに強烈な印象を私に刻み付けているものは何か。それは分隊日誌の文章である。日誌は当時二号が順番に受け持っていたように思う。そして後尾に夫々偶感を書いたものだった。従ってほんの短いものだったが、野秋生徒のそれは正に群鶏の一鶴、抜群のものだった。当時皆均しく軍国少年であり、悲憤慷慨、憂国慨嘆調の檄文には結構慣れ親しんでおり、私も稚拙ながら筆を染めたものだったが、野秋生徒の文はそもそもモノが違う感があった。視点、語彙、表現が違う。格調高く匂い芳しく、雄渾時には流麗。おまけに字まで達筆。何しろ半世紀前の思い出だから随分と美化しているかも知れないし、ご本人が小林の奴何言ってるんだとご立腹かもしれないが、当時の私の心は完全に脱帽し、深く大きく頷いてしまっていたのだから仕方がない。彼の当番の時の日誌を読むのが楽しみだった。分隊監事からも褒められていたように思う。「世の中には同じ年なのにこんな人間がいるんだ、矢張り全国版ともなると違うワイ」と、完全地方版の私はその懸絶にホトホト感心したものだった。彼は沼津中学出身。私が沼津に勤務していた頃、通産省にいた宮井嘉則さんと共に一度お会いし、その後は年賀状のやり取りぐらいで、淡きこと水の如き君子の交わりにもならないが、人生上には上がいるもんだということをしっかりと思い知らされた初体験ではあった。

五、本物を持てなかった憾み

私達は二号の途中で終戦となり、復員後進学した者が多いが、私自身を顧みると、実感としては、軍人としても一般学生としても、どちらも中途半端に終わってしまったような気がしてならない。一年足らずの経理学校の教育訓練では、軍人としての資質涵養には短過ぎて不十分極まりない気がしたし、旧制高校に入ってからも当初ゾルと言われ妙な差別意識をもって見られたことに反発し、心から溶け込めない何かがあり、これも中途半端の感を否めない。いずれにしても、どちらも入口でマゴマゴしている中に終わってしまった感が強い。従って、私の青春はどちらの体験も本物ではないんだ、本物を持てなかったんだというコンプレックスを負い続けた期間であったと言えるだろう。但し、この挫折感とも劣等感ともいえるものは深刻に考えたらの話であって、そこは私のいい加減なところで、余り深く悩まないように適当なところで回れ右をし、今日に至っている訳である。

でも、いわば両極端の生活を経験したことはプラス面も大きい。それは、どちらも一寸ずつおかしいぜという比較的醒めた見方ができるようになったことである。生来利かん坊で我が侭で抽象理論に酔いやすい私に、中庸と言えば大袈裟になるが、或る種のバランス感覚を植え付けてくれたように思う。とは思うが、貴重な精神形成期に本物を何も持てなかった青春とその延長を歩んできた私の人生は、寸足らずの不完全燃焼も好いところだったのではないかとの思いが、澱のように暗く心の底に沈んでいて、時折意地の悪い問いを投げかけて来る厄介な代物になっていた。しかし、これも余命が仄見えてきた還暦過ぎの頃までの話で、今はすっかり開き直って、「それがどうした、歴史は最良の選択であると言うではないか、My life is best choiceだ」と思うことにしている。

 

 

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